Final Mission「永遠のキズナ」

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 最終回!

 私の予想の斜め上を行ってくれました。

 というより、物語の落とし処としては、まぁ普通だったのですが、雰囲気作り、演技・演出の熱さ、エンターの徹底した悪役振り、そういった要素一つ一つが素晴らしかったと思います。

 徹底されたエクスキューズ偏重主義から始まり、人間賛歌へと帰結していったシリーズ構成の意味が、最終回でようやく明確になりました。メサイアが結局正体不明であったり、エンターやエスケイプの元になった人々の詳細、ワクチンプログラムが今後どのように活かされていくか等、謎や展望の数々が未だ判然としないままでの終結でしたが、「人間賛歌」としての帰結により、我々は溜飲を下げたのではないでしょうか。

 最終回は、徹頭徹尾、「対比」によって成立していました。これらの「対比」を解く事で、「ゴーバスターズ」のテーマが浮き彫りになるものと確信します。

 まず、生かされる者・ヒロムと、死にゆく者・陣の対比。

 これは、前回でも言及しましたが、陣は世代として去りゆく運命にあり、ヒロムはこれからを担うべき世代だという事です。ただ、今回もう一つ要素として加わった(改めて強調された)のは、陣が人間とデータそれぞれ半々の存在だったという事。この最終話では、ヒロムが人間である事、エンターがデータである事の対比を最も上段に構えているのですが、そこには、データは生を司らないという主張があります。陣はその意味で、ヒロムとエンターの間に立つ存在だったわけで、半死半生であったとハッキリ示されました。「ジュウレンジャー」のブライが死んだ後に数日の「生」を与えられたのと同様、陣も13年の「生」を与えられたのですが、その与えられた「生」を、ブライは地球の次代を担う子供達の為に消費し、陣は次代であるヒロムの為に犠牲にするという相似性が見受けられます。

 今回、感情面で最も盛り上がるシーンは、当然この「ヒロムからメサイアカードを抜き取る」シーンでした。陣の案に猛反対する面々、その反対の根拠となる策を問いただす陣。感情に訴えつつも、非常にロジカルな会話として成立しており、ロジカルだからこそ、やり場のない感情を画面に横溢させる事が出来るという、二重の意味で素晴らしいシーンでした。最終的に、ヒロムは陣の案を受け入れる事になりますが、ここでの注目はヒロムの仕草。ここでは、ヒロムが陣の胸に顔を埋めるという印象的な仕草を披露しますが、これは死にゆく者を引き留めたい感情と、甘えるしかない悔しさが混在しており、ここに世代ギャップが作り出す関係性が如実に表れていたように思います。

 陣と比較的濃い関係にあったのはリュウジでしたが、彼の場合、陣とはあくまで先輩・後輩の関係として描写されており、そこに甘えの感情が介在する余地は、あまりなかったと言えるでしょう。むしろ、リュウジは陣を超える事を常に目標としていたわけですから。逆に、ヒロムにとっての陣は、極端に言えば単に父親の同僚というだけですが、戦いの中、陣に父性を見出したのかも知れません。父親世代の人物が、楽しく、時には厳しく、そして包容力を持って導いてきた事で、ヒロムの中に父親と重なる部分が生じたとしても違和感はないでしょう。亜空間から脱出する際、陣とヒロムの父以外の人物、ヨーコの母親や他の人物が登場しなかったのは、正にヒロムの父という存在の一端を、陣が担っていた証左ではないかと思うのです。

 従って、ヒロムが陣にすがるシーンは、最後の父への(良い意味での)甘えを示しているようで、なかなか感慨深いものがあったわけです。

 次に、自己保身と自己犠牲の対比。

 これは、エンターが陣のデータを自らの保身の切り札とした事と、逆に陣が自身のデータをヒロムを救う切り札とした事の対比です。ここでも、人間とデータの狭間で切り札として扱われる陣の存在が際立って印象的に映るのですが、観念的なものでなく、より直接的に両者のイデオロギーの違いを示しています。「ゴーバスターズ」のテーマを思いっきり端折ると、「データはその存在自身が最も重要であるが、人間は次の世代へと繋がっていく事を重視する」という事になるかと思いますが(語弊込み)、それを完璧に示したわけですね。自己が残る事と、他者に託す事。言葉で言えば簡単に聞こえますが、実は非常に理解が難しいこのテーマを、たった一つ「陣のデータの欠片」というもので分かり易く示した構成は、高く評価されてしかるべきです。

 皮肉な事に、エンターの内部にある陣のデータが残存している事で、ビートバスターの活躍を可能にしており、ここでも陣のポジションの特異さが際立っていましたね。エンターにとっても、陣にとっても皮肉な状態でビートバスターは活躍していたわけで、この辺り、実に深い趣があると言わざるを得ません。

 もう、ここまで来ると、この最終回は陣さん主役でいいよ...という感じがしなくもない(笑)。

 続いて「仲間」という存在の見解の違いに関する対比。

 これは、分かり易くヒロムのセリフで説明されました。仲間を切り捨てるエンターと、仲間の存在をかけがえのないものと思えるヒロムの対比です。ここで気付くのは、シリーズ当初のヒロムが仲間の存在を疎ましくさえ思っていた事であり、その意味でエンターとはかなり近い存在だったという事です。つまり、そのままではエンターの思うツボだった可能性があり、土壇場でエンターがヒロムに投げかけた、「もっと良い存在になれたものを」といった意味合いの憎悪に満ちた言葉は、現実になっていたかも知れないわけです。ヒロムは、そこから「仲間」によって引き上げられたのであり、それは「戦隊」の標榜するテーマそのものと言って良いのではないでしょうか。

 最後の最後、エンターが一人で放つボルカニックアタックと、ゴーバスターズ5人で放つボルカニックアタックがぶつかり合い、エンターが敗れたのは、データとして利用される事でしか存在しない「仲間」と、何も言わずとも手を差し伸べてくれる(実際に手を差し伸べる!)「仲間」の違いが如実に表現された結果でした。「ゴーバスターズ」における決着の形としても究極の理想型だったと言えると思います。ヒロム単独が気合いで倒すなんていう安直な結末でなくて、本当に良かった...。

 そして、完全と不完全の対比。

 これもヒロムとエンターのやり取りの中で表現されました。不完全な人間だからこそ、仲間を必要とするという、これまた「スーパー戦隊」の原点に立ち返ったテーマが明確に踏襲されています。エンター自体は、それこそゴーバスターズを一蹴出来る程、完全にデータを収集出来ていた筈ですが、そこに欠けていたものは、「欠けているという事に対する誇り」だったのかも知れません。エンターが抱えていたのは、「欠けているという事に対する恐れ、あるいは完全である事への渇望」でしたが、ヒロム達は、「不完全であるが故の向上心」を有しており、結果的にポジティヴなメンタリティがネガティヴなそれを凌駕したという図式を見取る事も可能です。それも、ポジティヴな「戦隊」の正しい踏襲だと言えるでしょう。

 ちなみに、「不完全だからこそ助け合える」というパラダイム提示の見事さは、ワクチンプログラムの不完全さの根拠をも取り込んだという点で、小林靖子節の一つの到達点だと思います。

 最後に、生と情報の対比。

 近年の目覚ましい情報産業の発展により、一部の人間は、存在そのものを情報化する事で、生活の豊かさを享受していると言える段階になりました。「ゴーバスターズ」は、その状況へのアンチテーゼを示して一応の完結を見ます。

 情報は拡散し、一部がもし失われてもどこからか再構成が可能になるのに対し、生命は有限。これを、ヒロムの父達や陣の死(復活しない事)によって、明確に示しました。私は、もしかすると最後の最後にどんでん返しの大ハッピーエンドが待っているかもと、それこそエンドロール直前まで思っていたりしたのですが、厳然たる「死」の形を崩さなかったのは、このテーマを確実に表現したかったが為でしょう。

 失われたら二度と再構成出来ないが、その想いや意志といったデータ化出来ないものは確実に次代、あるいは残された者に継承され、それは「永遠のキズナ」として存在し続けるというテーゼ。これは、正に「人間賛歌」であり、もう一つ、「残された者への慰め」という裏テーマの現出です。「ゴーバスターズ」が制作された時期の社会情勢を思う時、それはググッと我々の胸に突き刺さる筈です。

 私自身はIT産業の渦中で生計を立てている人間なので、データの重要性については承知しておりますが、結局そのデータを操るのは生きている人間であり、それを為すには多くの人間の知恵が必要です。知恵を結するには人間同士が何らか顔を突き合わせなければならない。そこに利害関係を超えた何らかの理想的な力が生じた時、そのプロジェクトは成功を見ます。そういう事は、何もIT関係に限らず、何でも同じ事だと思いますが、人間らしさを露程も感じられないビットの羅列と、生の人間との対比が、現在では最も「人間賛歌」を扱うに適した題材だった事は間違いなさそうです。「ゴーバスターズ」は、紆余曲折あったものの、それを見事に最終話で示して見せてくれたわけです。

 さて、近年の戦隊には珍しくエピローグがエンドロールのみとなっていたわけですが、それだけ決着バトルを重視したかったという制作姿勢を窺う事が出来ます。エンドロールでのエピローグ自体もヨーコの高校編入をメインに据えつつも、かなりアッサリしたもので、カット数こそ膨大(要するにコダワリが見られる)なれど、やはりエンターとの決着、そして陣の消滅という最高点の余韻を消したくない思いが明確でした。私自身は、Bパート全てがエピローグだろうと勝手に想像してましたので、少々肩すかしを食らったような思いがありましたけれども、これはこれで「余計なもの」がくっ付いていない潔さがあったように思います。

 まぁ、Vシネマもありますしねぇ...(笑)。

 「ゴーバスターズ」は、決して成功作ではなかったと思います。小林靖子さんは傑出したストーリーテラーですが、何となく、バンダイが提示したガジェットが突飛であればあるほど、その魅力が増すように思えるのです。例えば、「電王」の「電車」。ライダーのバイクの否定といった次元を飛び越えまくった「電車」を、何とかする為の大風呂敷が、成功作を生み出しました。また、「シンケンジャー」の「侍」や「モヂカラ」。これもある意味、ヒーローのガジェットとしてはどうしようもない部類(失礼!)ですが、ドラマの根幹に突き刺さる要素として見事に昇華しました。一方で、「オーズ」のメダルはやや地味なガジェットで現実感があり、ストーリーのドライヴ感には、やや欠けていたように思います。同様に、「ゴーバスターズ」も現実感溢れるガジェットやタームが溢れ、料理するには「普通すぎる」という感覚だったような気がします。

 次作が「~ジャー」の接尾辞が付いたオーソドックスな5人戦隊で、ファンタジー系っぽい感覚のビジュアル、しかも恐竜という都合三度目のモチーフである事から、結果的に、本作の企画に謳われた「変革」は、失敗に終わったと評価されたのかも知れません。実際、はっきりと「変革」を感じられたのは、当初の巨大戦に限られていたように思います。そして、もう「戦隊」にハードSFは持ち込めないという、若干の寂寥感を残しつつ、「ゴーバスターズ」は幕を閉じる事となりました。

 ただ、手放しで褒められる作風ではありませんでしたが、確実に「挑戦」が感じられる作品だったと思います。「変身シーン」のパターンを破壊・再構築し、巨大戦のシチュエーションの多様化を担い、敵組織を素面役者で押し通す辺り、もっと評価されて然るべきであり、後続作品にも踏襲して欲しい要素は沢山存在していました。

 テクノロジーの素晴らしさを全面に押し出しつつ、その暗黒面もえぐるように描き、結果的に「人間賛歌」へと帰結したシリーズ構成は、正に「スター・トレック」シリーズのようですが、私はそこに、制作陣の自信が顕れていたと思います。「戦隊もここまで来た」という処を見せたい意気込みに溢れていたと感じます。

 というわけで、一年間お疲れ様でした。

 次作「獣電戦隊キョウリュウジャー」に関しても、ブログを用意いたしますので、よろしければご覧下さい。

 https://www.sirmiles.com/kyouryu/

 だいたい、いつものタイミングで準備しますので、今しばらくご猶予を...。

 ありがとうございました。

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 後日譚で陣の復活もあるのか!?