Mission 49「覚悟と選択」

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 遂に最終回一歩手前。光陰矢のごとし。早いですね~。

 最終回は、どういう落とし前を付けるのかと、色々予想していましたが、意外や意外、黒木&陣世代と、リュウジ以下の世代の、二つのジェネレーションが別々の精神性で事に当たるという展開が待っていました。

 ここ最近は、ヒロム、リュウジ、ヨーコの三人にまつわる様々なメンタリティや状況を整理し、時には新たな一面を付加するエピソードが続いていましたので、黒木や陣は今回の劇中でも言及されたように「やや置いてけぼり」を食っていました。かつて「若者」の覚悟のない甘さをたたき直す為に、アバターとなって現れた陣マサト。いつの間にか覚悟の面でも実力の面でも追い越され、土壇場で自分に本当の覚悟の必要性を迫られるという、世代間の逆転劇が鮮烈でしたね。

 シリーズ当初、黒木には、苦楽を共にしたセンターの人員を切り捨ててでも、ヴァグラスの脅威から世界を守るという「覚悟」があるように描かれていました。話数を経るにつれて、ヒロム達の後見人という立場がより色濃くなって柔和な雰囲気を出すようになったものの、今回は、親友(?)である陣を失う作戦にGOサインを出し、エンターを亜空間へと半ば道連れにする作戦にもGOサインを出すという、司令官としては後のない「覚悟」を迫られました。

 黒木と陣にとって、安全策をもっと時間をかけて探るという「選択」は皆無だったわけで、その意味で、サブタイトルにある「覚悟と選択」は、黒木と陣の世代にとっては、「覚悟するか否かの選択を迫られる」という意味になります。興味深いのは、ヒロムの父達は黒木と同世代であるにも関わらず、「覚悟を決めて自己犠牲を選択」しており、これはちょっとイヤな言い方をすれば、40代を迎えて老成した人格には、「覚悟するか否か」しか選択の余地がなくなってくる、即ち、無限に拡がる可能性がスポイルされてくる、即ち、若い世代に一つの道を与えて去りゆく者となる...といった、世代交代論を背景に据えている感覚があるわけです。

 これが最も端的に示されたのが、基地の崩壊に当たって、黒木が「去りゆく」姿勢を見せたのに対し、仲村、森下両隊員が「覚悟を決めて危険を選択」したシーンでしょう。このような構図は、映画でもテレビドラマでも、それこそ特撮では何度も何度も描かれた「美徳」なのですが、今回に関しては、世代間のコントラストを描く端的なシーンとして映りました。このシーンでは、別に黒木単独でも何とか亜空間に転送するオペレーションは維持出来たわけで、ヒロム達の世代が一蓮托生、同じ選択をするという精神性の顕れ以外の何物でもないでしょう。むしろ、両隊員はヒロム達の帰還の際に大いに助力になる事は明らかなので、戦略としては、ここで黒木は無理矢理にでも仲村と森下を脱出させるべきでした。敢えて戦略面のエクスキューズを断ってまで、このシーンを用意したと考えていいでしょう。

 陣の「覚悟」は、自己犠牲によって、ヒロムの中にあるメサイアのカードに関するデータを抜き取るというものでした。この「覚悟」も、黒木と同様「それしか選択の余地がない」という状況下での「覚悟」である事は明らかで、黒木と同世代である事が強調されています。陣は非常にライトな雰囲気を持ったキャラクターですが、その奥に悲壮感が常に漂っており、「助かりたい」と思いつつ「助からないだろう」という諦念に支配されている、「半分死んでいる」キャラクターだと言えます。ただ、Jという相棒の存在が、陣にわずかな希望を与えていたわけで、今回は、その希望を完全に断って、ヒロムという「次の世代」に道を譲り、やはり「去りゆく」事を選択せざるを得なかった陣(とJ)の「覚悟」は、察するに余りある重さに満ちています。

 一方で、陣のデータでヒロムのカードを抜き取るというエクスキューズは、何だかよく分からない物だったのはちょっと残念。

 メサイアカードを転送中の陣に突き合わせると、転送未完了のデータの構造が特定されているが故に、メサイアカードに融合された陣のデータにマーキングが可能になり、マークされたデータを内包する集合体(いわゆるオブジェクト)までも特定出来る。ただし、メサイアカードの全てのデータごと陣の身体に転送されてくるので、陣の身体としての復元は不可能になる...という事なのでしょう。この辺り、ハードSF志向でありながら戦隊の呪縛から逃れられない「もがき」を感じるんですよね。ただ、私はあくまで「戦隊」は「戦隊」の枠内に収まるべきだと思うので、赤黒二種類のジェンガで視覚的に分かり易く描いていたのは非常に良かったと思います。こんな事、理屈で説明したって盛り上がりませんからね。

 さて、若者世代の方に目を向けてみましょう。

 ヒロム達に関するドラマは、一気呵成に「自己犠牲の、自発的な選択」へと突き進むものでしたが、その前にヒロムの単独行動を諫めるリュウジを描いた事で、同世代が共有する「運命共同体」的な面が強調され、ヒロム以外の者達が迫られる「覚悟」に関して、より自然に描かれたのではないでしょうか。

 前回、ヒロムがある意味仲間を「裏切った」事で、「ゴーバスターズ」でそれとなく強調されている「絆」を再確認する事にもなり、今回の熱い演技合戦にも自然と感情移入出来る仕上がりとなりました。

 「一緒に生きて帰ってこよう」というより、「死なば諸共」という精神性が強調され、ややその雰囲気は悲壮感が強すぎるようにも感じましたが、最終回直前の盛り上げ方としては正解だし、これが通常の戦隊で言う処の、「最終回前に世界的なカタストロフィが起き始める」事の代替となっています。しかも、極めてパーソナルな処が特徴。感情に訴える人間ドラマに比重を置いているのが、よく分かります。「ゴーバスターズ」の掲げた「変革」の一つは、物語の収束する先を極めて個人的なものとする事で、個々人の関わりを浮き彫りにした処にあるのではないでしょうか。これは、「私闘」が結果的に平和の獲得へと繋がっていくという、かつての宇宙刑事シリーズや、近年の平成ライダーを彷彿とさせる構造で、「戦隊」では珍しいものだと思います。「メタルヒーローのエッセンスを取り入れた企画」という指摘にも納得がいくというものです。

 なお、この本当のクライマックスまでに、「ゴーバスターズ」には二度のクライマックスがあり、一つ目で亜空間でのヴァグラス本拠崩壊という「敵基地壊滅」を、二つ目で巨大化したボスを倒すという「ボス戦」を展開しました。今回はいわば「残党狩り」の構造を持っているわけで、通常の「最終回」を三分割したのだと気付きます。そこまでして、「残党狩り」を最終回に据える事までして、「ゴーバスターズ」が描きたかったのは何か? それは次回、明らかになるでしょう。

 もう一つ、要であるエンターに関する話を。

 今回、エンターはレッドバスターのデータを用いて、モーフィンを果たしましたが、そのデザインが実に素晴らしく、これぞ正当派ダークヒーローといった趣でした。やはり、どことなく平成ライダーのデザインラインを踏襲している感はありますが、一見してレッドバスターだと分かる事と、一見してレッドバスターではないと分かる辺りのバランスの良さ、エンターとしての意匠がふんだんに盛り込まれたセンスの良さ。欲を言えば、ずっとこの姿を保ったまま、ゴーバスターズを苦しめて欲しかったくらいです。

 ただ、エンターの持つ「狂気を秘めたノーブル」といった雰囲気は、ここに来てほぼスポイルされてしまい、データ至上主義という狂気に取り憑かれた粗暴な人物に変貌してしまいました。これも、人間のデータをより多く解析した結果であると考えれば、非常に緻密なプランの上に成り立っている事も分かるのですが、変化がかなり急激だったので、唐突に感じられたのも確かです。ただ一点、ここだけが少々段取り不足だったように思います。まぁ、そんな事は些細に感じられるくらい、他要素が充実していたのでいいんですけどね。

 というわけで、もうそろそろ次の「キョウリュウジャー」が気になり始めている頃だと思いますが(笑)、次回の最終回まで、しっかり見ていこうと思います。