終着駅「輝いているもの」

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 終着駅。

 一年間にわたる長い旅路が終わりました。

 その軌道は直線ではなく、所々曲がりくねってはいましたが、ちゃんと環状線的なまとまりを見せて終わりましたね。

 最後の最後に、溜めさせていた涙を搾り取る構成は見事の一言。終わりよければ全てよしという常套句が霞む程、情感に溢れたクライマックスとなりました。

 前回、イマジネーションが枯渇したライトにスポットが当たっている、という論旨を展開しましたが、それは概ね良い見当でした。そして、トッキュウジャーとして頑張ってきたトカッチ達四人の、類い稀なるイマジネーションは、ライトに再び光明を与える事になり、更にはライト達の肉親が、同様のイマジネーションを備えていた(!)という、この上ない「希望」を見せる事で、一気呵成に物語が収束して行きます。

 この「ポカーンとしている間に一気に進む」感覚は、逆に冒頭の静謐なライトと四人の再会シーンと、エピローグにおける家族との感動の再会シーンを際立たせており、構成としても妥当で巧みなものでした。

 一方、何となくですが、この最終話は前後編を駆け足で一話にまとめたという印象も。キャッスルターミナルが変形したロボ(?)も、巨大戦に持ち込まれる事なく瞬殺に近い形で倒されてしまいましたし、幹部との本格対決は、ネロとモルクがゼットに取り込まれるという驚きの展開へと収束してしまいました。終わってみれば何と、トッキュウジャーとシャドーライン幹部は、直接対決こそ何度も描かれましたが、ついぞ直接一人も倒す事なく最終話を迎えた事になります。結果的に、ゼットが全ての幹部を始末してしまった形になり、シャドーラインという組織がいかに特殊だったかが窺われます。

 ただし、ネロとモルク相手の戦いは尺が割と長めに取られていて、その辺りのフラストレーションは溜まらない構成になっていました。敵味方双方に見せ場がちゃんとあり、アクションドラマとしてのプライドをしっかり見せてくれました。

 曲解かも知れませんが、ライト達は子供という設定なので、幹部達に死を与えるという展開を嫌った可能性もありますね。勿論、毎回のシャドー怪人は躊躇なく倒していますが、幹部連中とは人格の描かれ方に雲泥の差があるわけで。子供のごっこ遊びに置き換えると、幹部連中にはキャストが居ますが、感覚的にシャドー怪人はソフビだったりするのではないでしょうか。

 ちなみに、幹部がボスの力として使われるという展開は、「ライブマン」や「シャイダー」等で見られますが、今回の筋書きは「シャイダー」に近かったですね。幹部の忠誠心を見せて散っていくという、王道の展開が泣かせます。ネロは日和見主義っぽいキャラだったが故に、その最期の忠誠心がゼットならずとも本当に「キラキラ」に見えました。モルクはゼットの母親的な立場でしたから、その母性愛のようなものを見せる辺りがまた「キラキラ」していましたね。躊躇なく別れを告げて二人の力を得るゼットに至っては、そこに邪悪な者としての矜持は清々しい程に無く、むしろ「キラキラ」を欲する自らの本能が止められないといった、闇であるが故の悲しさを体現していたように思います。

 また、この一連のアクションシーンの幕開けには、最終話恒例の「素顔名乗り」がちゃんと盛り込まれていて盛り上がりました。完全な素顔での名乗りは、バラエティ編でやってしまったので、今回は所謂マスクオフ状態での名乗りに仕上げていて、プレミアム感のあるシーンとなっています。アナウンスが代理で名乗るパターンから脱却し、自ら「トッキュウ○号」と名乗るのも、プレミアム感を強調していました。

 そして、驚きのトッキュウレインボー!

 この処理は様々な意味で合理的だなぁと思いましたが、とにかく盛り上がりましたね。

 真にゼットと因縁を共有しているのはライトのみですから、最後の最後は両者の「サシの勝負」に持ち込まれるのが妥当。これを実現する為には、2~6号はリングアウトしてもらう必要が出て来ます。そこで採られたのは、「トッキュウジャー」の象徴たる「乗り換え」。

 「生きる場所」に遂に到達した明は、ここで真のレインボーラインの一員、真のトッキュウジャーになれたわけで、ライトが明のオレンジにも乗り換えられたのは、五人と明の間にあった遮断機が取り払われたという意味すら感じられました。

 次々と乗り換えてゼットに対抗するライトは、六色+金色で七色を揃えて、虹色に輝くトッキュウレインボーへと変身します。明のカラーを加える事で、遂に七色が揃うという究極のクライマックス。チープな七色の色分けスーツ等ではなく、合成で表現された輝くばかりのトッキュウ1号の格好良さは、筆舌に尽くしがたいものとして画面上に躍りました。ゼットを終始圧倒するカタルシスは、「トッキュウジャー」の中でも最強だったと思います。さすがは最終決戦。大昔、戦隊全員の力を結集した単体ヒーローがボスを倒すというストーリーを考えた事がありますけど、正にそんな感じで、おまけにビジュアル的には想像を超えていました。イマジネーションの勝利ですね。

 最後の最後に構えたレンケツバズーカは、ライトを生身の五人が支えるという構図で放たれ、ライト一人の物語では無論無いのだという事をビジュアルで示しました。最終編はライトの独壇場とも言える展開でしたが、こうして終わってみると、ちゃんと他のキャラクターの話も丁寧に掘り下げられていて、本当に巧くまとめたなという印象です。

 さて、今回がやや駆け足に見えたとの見解を述べましたが、そういったシーンの筆頭は、やはりライト達の家族が星祭りの灯籠を灯すシーンではないでしょうか。

 終わってみれば(という言い方をまたしてしまいますが)、あのシーンの唐突感もどこかへ霧散し、納得してしまうのですが、シーンが登場した時点においては、やはり少々唐突でした。

 一応、ライトの母が「もう一人居るような気がする」と呟くシーンを挿入し、当該シーンに至る段取りを付けているのですが、「もう一人居る」と感じる事へのきっかけが乏しいので、些か唐突に見えたわけです。これに関しても、前回に何となくライトを思い出しそうな彼女のシーンが挿入されていたりと、地味な伏線が張られていたりします。なので、唐突という感想は本来間違っているのかも知れませんが...。巧く言い表せませんが、積み上がる伏線がライトの闇のインパクトの前に薄まり過ぎていた...という事なのかも知れませんね。少なくとも、パズルが一気に組み上がるような快感という点においては、それほどではなかったと思います。

 しかし、それらの要素が、灯籠の軌道で闇を払拭するシーンの感動をスポイルするかというと、そんな事は全くないわけで、この辺りの編集の巧さはさすがといった処でしょう。また、さすがに説明不足だと思ったのか、総裁や車掌さんにロジックを補強させるセリフを言わせてはいます。恐らく、尺が長ければもっとこの辺りを丁寧に描写したのではないでしょうか。今回の凄まじいテンポ感と秤にかける事となる為、どちらが良かったのか......いや、今回のが正解でしょうね!

 イマジネーションという、解釈が難しい概念を見事に描くという点では、「子供達が居た記憶を取り戻す」というロジックではなく、「子供が居たような気がする」という「曖昧な感覚」を重視した演出にも注視したい処です。どうも子供がもう一人居たような気がするんだけど、よく分からない。じゃあ、居た事にして灯籠をもう一つ作ってしまおう(!)というのは、文字にすると強引な論ですけども、絵面では非常に納得出来る「感覚」だったのではないでしょうか。想像する力が、とうとう現実を動かしてしまったという意味で、このシーンは実に象徴的でした。劇中でも言及されたように、愛、夢、希望、親子の絆といった美辞麗句を全て内包する「感覚」こそが重要だったのだと思います(翻せば、言葉を並べる陳腐さに社会が辟易している...のかも)。

 そして、その「家族のイマジネーション」は、もう子供には戻れないライト達を、子供に戻す程の力があると示されました。

 自分の子だから、大きくなった姿は容易に「想像出来た」のです。どんな姿であっても自分の子である事を否定する根拠にはならない。再会した時は、皆むしろ大きくなった姿を喜んでいました。程度はまるで違うものの、丁度、林間学校に行って雰囲気を違えて帰ってきたような...そんな感覚の延長ですよね。

 子供に戻るのは予定調和だという意見もありそうですが、少なくとも子供向けコンテンツなのだから「ハッピーエンドに勝る結末なし」ですし、子供に戻ったとは言え、大人の姿で経験したものは彼等の中で確実に活きるのですから、やはり彼等は旅の中で確実に成長して、家に帰ってきたのだと断言出来ます。

 仲間の大切さを知った鈴樹来斗は、自分勝手に突っ走るのを、抑制出来るようになる...かも知れませんね。

 戦いの中をかいくぐってきた渡嘉敷晴は、もしかしたら兄より強くなったかも知れません。

 常に周囲を気遣いつつ自分の主張も大事だと気付いた夏目美緒は、以前にも増して頼れるリーダーシップを発揮するでしょう。

 激戦模様の裏で観察眼と戦闘力そして優しさを磨いた野々村洸は、これから陰日向関係なく活躍する男になると思います。

 弱さを自覚し克服してきた泉神楽は、他人の弱さに寄り添える女性として周囲を支えていくに違いありません。

 そして、数奇な運命を辿って生きる場所を見つけた虹野明。彼はこれからもイマジネーションの為に、その軌道の保全に尽力していく筈です。

 ゼットは、ついに消す事の出来なかったグリッタと共に、本来の居場所へと帰っていきます。

 旅が終われば家に帰る。ゼットとグリッタとて例外でなかったという事が示され、実に美しい終結となりました。「キラキラ」を良心に換言するのは陳腐ですが、ゼットは自らの良心に従う事で、家に帰る事が出来たのだとも言えるのではないでしょうか。照りつける太陽に自らの灼け付くような良心を重ね合わせる姿には、「こう生きる事」を強制された彼の哀しいまでの抵抗が見えていました。

 彼の鏡であるグリッタと共に、シャドーラインはどうなっていくのでしょうか...。

 旅に終わりがあるように、旅にはまた始まりもあります。綺麗に終わったけれど、絶対に続きが作れそうな終わり方をしているのも巧かったですね。

 というわけで、早くも続編の発表がありました。この「帰ってきた」シリーズは恒例となりましたが、やはり続きに触れられるのは楽しい事です。

 では、この辺りで。今シーズンも駄文へのお付き合い、誠にありがとうございました。

 次週より、「手裏剣戦隊ニンニンジャーを見たか?」の方をよろしくお願い致します!