とは言っても、ヒカルと美鈴は不在で、メインのキャラクターは健太と千草。中身も、実際はマグマ星人が語り部となる総集編なのですが、「ウルトラゾーン」のノリを持ち込んだコメディとして制作されており、意外と楽しめる内容でした。
いわゆる「除け者」にされてしまったマグマ星人の視点から見た、仲間(?)への恨みつらみが混じった独特の視点はなかなか面白く、単なる総集編にとどまらない楽しさがありました。もはや、侵略宇宙人としてのプライドは無きに等しく、オリジナルを熟知しているファンからすれば忸怩たるものですが、「ウルトラゾーン」を楽しんでしまえるならば、今回も充分に楽しめたのではないかと思います。
健太と千草によるドラマパートですが、小学校ではない街中のロケという事で画面の新鮮味があり、より高校生らしい普段の姿を演出出来ていたように思います。本編からしばらく経過しているので、二人の演技力にも磨きがかかっていると感じられる部分が多々あり、今後が楽しみになります。
ただ、ロケが街中だった事で同録が困難だったのか、ほぼ全編がアフレコになっており、これが本編とかなり質感を異にしていてやや違和感を感じました。本編が同録だった事もあって、アフレコに不慣れな部分が表面化していたのも違和感の一端になっていたかと。二人の放つ本質的な魅力は、本編よりも高まっていたと思いますが。
また、総集編の枠を超えて、マグマ星人に加えてゼットンまで登場させ、さらにウルトラマンとウルトラマンティガまで登場させるというサービスも。
勿論、ウルトラマン達には健太と千草がライブするわけで、ここに来てこういった新作カットによるバトルが見られるとは思いもよりませんでした。
ゼットンが健太達の住む街を、大気圏外からの超高空爆撃に晒すという、スケールが大きいのか小さいのか分からない、何だか凄い状況になっているのも面白く、その摩訶不思議なシチュエーションを、ちゃんと映像として表現している手間のかけようも見事です。
クライマックスでは、ちゃんとギンガが登場。しかもヒカルは関係なく、ギンガ本人が杉田智和さんの声で喋り、叫ぶという神展開の様相を呈していました。
これだけの豪華さなのですが、番外編とあって、ソフト化されないのではという危惧が上がっていました。しかし、めでたく劇場版第二弾のDVDあるいはBlu-rayに収録される事が決まりました。良かった良かった。
]]>「ギンガ」は劇場版を併せてもわずか13話に過ぎず(続編の「ギンガS」は除く)、その本数は「ウルトラマンG」や「パワード」といったビデオ作品と同等。しかし、それまでのウルトラの構造を意図的に廃した事で、その物語は「G」や「パワード」の質感に比べ、随分異なります。うん、なんだか、こじんまりしてるね、という...。
それが悪いとは思いません。むしろ、ウルトラで平成ライダーのような「私闘」が実現可能である事が示されましたし、怪獣を敵味方なくニュートラルな存在に出来るのは、ウルトラのブランドだけだという証明も得られたのですから。「列伝」というオムニバスコンテンツの中に、新作を成立させる手法も同時に確立出来たのではないでしょうか。
そんなわけで、最終回です。ダークルギエルを半ば無理矢理引っ張り出す強引な構成には少々驚きますが、概ね大団円に相応しい完成度だったと思います。
平成ウルトラに顕著な、ゲストを最終回に集結させるという手法が、ここでも踏襲されたわけですが、前例に倣い、ちゃんと勝利へのきっかけを形成する事になります。その前哨として、「更正」した面々が夢を語るのですが、まぁこれは、感動を呼ぶ程のものではないです(笑)。ダークライブする前に「犯罪」を犯していたような連中ですが、書類送検されただけなんですかね。そんなわけないでしょう...と言いたいが、ここはグッと我慢。このくだりは、まだヒカル達が到達出来ない「夢」を、一度挫折した大人が一足先に実現してくれるかも知れないという、「別の到達点」を示しているので。
実際、一様にその目に悪意が宿っていた大人達が、爽やかな表情で様々な展望を語る(後に黒木や桑原も「学校を残した形」での建設計画を晴れやかな顔で検討する)シーンは、「ギンガ」の落とし処としては打倒でしたし、それがヒカル達高校生の頑張りによってもたらされたという流れは、確かな感動をもたらしてくれます。
今回は、他にも平成ウルトラっぽさが色々と出ています。
平成ウルトラの顕著な傾向として、「応援! → 奇蹟!」という明確な筋道があります。中には全くその道を通らない作品もありますが、「ティガ」は、物理的なエネルギー(謂わば「光」)を、抽象的な応援という行為の具体化として取り入れ、しかもそれをシリーズの途中で描写する事により、「応援! → 奇蹟!」を正当化した最初の作品だと思います。ただ、まだエクスキューズに説得力があったとはいえ、最終回での子供達の一斉ゼペリオン光線は少々やり過ぎだと、現在の感覚では思えるし、その後、「ガイア」や「ネクサス」、「メビウス」で極めて近いニュアンスのエンディングを迎える事により、既にルーチン化して陳腐化してしまったようにも思えるのです。
それぞれ、「ガイア」ではアルケミー・スターズの総頭脳戦だったり、「ネクサス」では隠蔽から解放された人々による恐怖の克服だったり、「メビウス」は共に戦った仲間との完全融合だったりと、物語に即した納得出来るエクスキューズは用意されているのですが、やはりウルトラマンに起きるのはそのプロセスが発端となった「奇蹟」である事は間違いない処。燃える展開なんですよ、実際。しかし、「単体ならば」という但し書き付きです。同シリーズで繰り返されるとなかなか厳しいものがあるのではないでしょうか。
今回も、ほぼ同じプロセスだと言って良いと思います。立つ事すらままならない小学校の卒業生達が、自らの中に残された希望を絞り出すようにして歌う、降星小学校の校歌。それがダークルギエルを怯ませ、タロウ復活の力となる、そのプロセス。やはり、物語に沿ったエクスキューズを用いた同構造でしょう。
ただ、「メビウス」からは随分と時間が経っているので、あまり気にならなかったというのも正直な処。また、「ギンガ」の作風が「校歌でほのぼのする」という感覚にマッチしていたのも大きいです。前回、ダークルギエルが白井校長に校歌のパネルを破壊させるというくだりがありましたが、校歌自体に言霊的なパワーがあるのを、ダークルギエルは予見していたのではないかと思わせます。
「ギンガ」では、「夢」という言葉を繰り返し口に出す事で、その実現可能性を上げていくかのような描写が散見されましたが、正にこれも言霊的な考え方であり、ホツマという言霊の塊のようなキャラクターはその象徴でした。スパークドールズという動かざる人形は、正に「依代」、「形代」ですが、タロウだけは言霊を操る事の出来る、既に魂の宿った形代であり、ウルトラ念力という「神通力」を発揮する唯一のキャラクターだったわけです。こうして見ると、「ギンガ」は実に陰陽道的というか、呪術的な感性に彩られている独特のウルトラマンですよね。
その視点で捉えると、ダークルギエルは呪詛の塊と言えるでしょう。実際、ダークライブした人間は呪いの言葉を吐き続けていましたから。
面白いのは、ギンガはその対極にありながら、「言祝ぐ」事をしない無口なウルトラマンである事です。
ここは、喋る役割をヒカルが負っていたというのが、肝なんだと思います。ギンガは一度ダークルギエルに敗れていますが、それは言祝ぐに当たっての力が不足していたのではないでしょうか。故に、自ら形代となって、パワーを秘めたヒカルに託したのでしょう。
ヒカルは夢に迷いを持たない、夢という言葉を臆面なく口に出せるとあって、劇中でのその言霊の力は相当なものだと考えられます。呪詛は過去の行為に対するネガティヴな感情を外部に向けて発信するものですが、言祝ぎは明るい未来を願って発信するポジティヴなもの。ここでタロウやギンガが讃える「未来」とガッチリシンクロしてきます。
ダークルギエルには、人々から時間を奪って未来の到来を阻止するという、SF的な時空感を付加されていますが、本質的には物言わぬ人形に変える事により、言霊の力を奪い取っていると解釈出来ます。ヒカルはそんなダークルギエルを「許せない」としており、それは文面上は呪詛ですが、ヒカルの内面から発せられた呪詛ではなく、ダークルギエルへの呪詛返しだと解釈しても問題ないでしょう。
今回の「奇蹟」の質感が良好だったのには、タロウ復活とギンガ復活という二段構えがあったからだというのもあります。タロウは、言霊を自在に操れるとはいえども、言い方はあまり良くないですが、過去のウルトラマン。しかしながら、降星小学校の校歌という「言霊の極致」を受け入れるだけの器は有しており、それ故に大勢の人々の力を得て本来の姿を取り戻し、ダークルギエルに立ち向かう事が可能になりました。タロウが担ったのは、過去から未来へパワーを繋ぐ事。それを受け取る者こそが、ヒカルなのでした。
それにしても、タロウの活躍は反則に近い格好良さでしたね。往年の変身バンクを再現して見せたり、超高速パンチを叩き込んだり、そのままダークルギエルに勝てるだろうというツッコミが成立する程の強烈な印象でした。勿論、タロウがダークルギエルを倒してしまっては意味が無いので、やや唐突なギンガへのパワー照射を経て、消滅に至るわけですが、タロウが活躍している間は「ウルトラマンタロウ」の主題歌が流れるという、にわかには信じ難いサービスっ振りで、その破格の扱いたるや相当なものです。主題歌が、歌入りで流れている辺り、言霊のパワーを象徴しているようで興味深いですね。
ギンガ VS ダークルギエル戦は、月面での描写を交えた豪華なもので、あらゆる工夫を盛り込んで超然たるバトルを組み立てており、非常に完成度が高いものとなっていました。月面は照明を落とした撮影ですが、やはりホリゾントがグレーなのとそうでないのとでは、臨場感が全く違う事に気付きます(笑)。月面は最小限のセットに抑えられている事が、メイキングからも分かりますが、合成カット挿入の巧さもあってセットの狭さを全く感じさせない辺りが素晴らしいです。
エンディングは、スパークドールズが宇宙に還っていくという描写により、別れを美しく爽やかなものに仕上げていました。
平成ウルトラにかなり共通しているのは、ウルトラマンの再現可能性が絶たれるというパターンで、「ティガ」でスパークレンスが石化したり、ウルトラマンダイナが別の宇宙(≒死のイメージ)に旅立ったり、「マックス」で遠い未来が描かれたりといったものが挙げられます。今回は、スパークドールズ自体が失われた時間を取り戻すという終幕なので、ギンガ自身も形代ではなくなった事から、少なくともこれまでの方法による再現は不可能になりました。この辺りは「ギンガS」でどのような道が示されるか、非常に楽しみです。
結局、ホツマの正体は分からずじまいといった部分が指摘される等、シリーズ単体の完結としては、少々物足りない部分もありますが、苦しい台所事情と短い製作期間で、曲がりなりにも新作を世に送り出せた事は素直に賞賛したいです。しかも、続編シリーズの制作が決定されたという事は、「ギンガ」がちゃんとメインの視聴者層にアピール出来たという事の証明であり、ファンとしては喜ばしい事に他なりません。
これからも、「ギンガ」の動向を見守っていこうと思います。そして、出来る限りリアルタイムで記事を書ければと(笑)。
今回は、スーパーグランドキング、闇に魅入られた美鈴、闇の支配者の正体...といった、重大なトピックがドカンと詰め込まれたエピソードですが、「ヒカルと美鈴の喧嘩」の尺の長さの割には、意外とスッキリ見られる構成力が凄い。
本来は、ヒカルと美鈴の喧嘩がメインなのですが、やっぱり何と言っても百戦錬磨のベテラン役者による「悪霊退散」があまりにも強烈で...(笑)。
ダークルギエル、いわゆる「闇の支配者」は、白井校長に憑依していて、白井校長の(降星小学校の卒業生が法を逸脱した行為を働いているという)憂いを利用して人間の闇を拡大させるのが狙いでした。しかし、この「解決」はロジックこそ通ってはいるものの、実に唐突に思えます。何しろ、明確に「先輩」として登場したのは、パンドンにライブしたユウカのみ。「闇の支配者の腕」が登場するあの暗い部屋の場所も匂わされる事なく「完全に不明」でしたし、伏線はほぼなかったと言って良いのではないかと思います。
しかしながら、校歌のパネルを破壊する白井校長の姿が回想される辺りから、何故か説得力が俄然増してきます(笑)。やはりそれは、白井校長役の木野さんの凄まじい演技に依る処が大きい。もうとにかく、物凄いのです。嬉しくなるくらいに。強いて言えば、ここまで狂気に満ちた演技を見たのは、ウルトラで言えば「ネクサス」が最後ではないかと。「ネクサス」以前を見渡してみても、「A」の久里虫太郎を演じた清水紘治さんか、先頃惜しくも鬼籍に入られた蟹江敬三さん演ずるブニョ(「レオ」)辺りしか思い至りません。もうあまりに嬉しくなってですね、本放送の録画を3回は見てしまいましたから。
この辺りは、やっぱり舞台俳優さんとしての経験が豊富だという事なんでしょうね。本編ではエフェクトが効果的に使われていましたが、メイキングを見ると素の状態でも充分恐ろしい雰囲気でしたよ。
そして、闇の支配者である事を看破された後の、恐怖とも悔恨ともつかない狂気に満ちた悲鳴の恐ろしさたるや、もう殆どミステリーホラーの様相で、木野さんのキャスティングが、この一連のシーンを予定した上でのものである事を、もう理解出来すぎてしまうわけです。
続いて、この状況を打破するのがホツマ。津川雅彦さんの演技がこれまた実に濃厚!
実況系のTwitterで「古畑」というタームが踊ったのですが、白井校長に迫っていく際の口調が、何故か「古畑任三郎」っぽいのです(笑)。実は津川さん、犯人役として二度出演した木村拓哉さんと並び、重要な役どころで二度「古畑」に出演(初出演はメインゲスト=犯人役、二度目はメインの犯人並みに出番の多い医師役)しておられます。この時の経験が今回に活かされている...わけではないですが、隠避する犯人を追い詰める口調として、これほど効果的なものはないと、演技の引き出しから出されたのが「古畑っぽい口調」だったのかも知れません。
一連のシーンではヒカル達を完全に置いてけぼりにして、大ベテラン同士の演技合戦の様相を呈し、その熟練の技をじっくり堪能する事が出来ます。TVドラマではほぼ演技初心者と言って良いヒカル達のフレッシュな魅力とはまた違う、濃縮された円熟味の中から発露するエキセントリックな演技は、ウルトラの歴史を確かに彩ったのではないでしょうか。
ちなみに、ホツマが唱えていた謎の呪文は、津川さんがホツマのネーミングを自ら提案した際、ソースにしたという古文書「ホツマツタヱ」に存在する一節との事で、その役柄と謎めいたキャラクター性にピッタリと合致。この演技プランの確かさに、「ギンガ」はかなり助けられたのではないでしょうか。大ベテランをキャスティングする意義を、津川さんと木野さんの繰り広げるシーンが如実に示していました。
さて、一方の若者によるドラマですが、こちらは脚本を監督の意見で変更した...というこだわりの演出が見られます。
そのこだわりには賛否両論あるようですが、私はどちらかというと「賛」の方です。
「ギンガ」は、扱うテーマが「夢」という不確かな、しかも簡単には実現しないものであり、「夢」という単語を口上に乗せるだけでなく、割とシビアに向き合うという描き方をした為、根底に流れるものは意外と重いものになっています。故に、「夢が叶う」という安易な決着は敬遠されてしかるべきで、別の落とし処として、ヒカルと美鈴の関係を再確認するという話が選択されたものと想像出来ます。つまり、二人で夢を追っていこうと。その為には、まず目の前の「阻む者」に二人で立ち向かっていこうと。
その落とし処を表現するにあたって採用されたのは、二人に喧嘩をさせるというもの。しかも、お互い意地の張り合いに発展する「恋人同士の痴話喧嘩」というヤツで、これが演出の愉快さもあって実に楽しい。しかし、その外部では壮絶な戦いが繰り広げられているとあって、そのギャップが「ギンガ」の特徴を顕著に反映しています。
で、この「痴話喧嘩」をどう捉えるかなのですが、心を閉ざした美鈴をヒカルが必死に説得するという構図は、実は千草がラゴンにライブしたエピソードで既に披露されており、そのシチュエーション自体にあまり新味はありません。ここで思い切って傍目にはラブラブに見えてしまう喧嘩に転化した事で、二人の関係は元々恋人同士に近いものであった事や、ふとしたきっかけで不意に互いの事が大切に思える瞬間が自然に訪れる等、後の所謂「石破ラブラブ天驚拳」にちゃんと淀みなく繋がる要素を湛えるに至るのです。全体のトーンを暗めにするのではなく、このような重大なシーンをコメディに振ってしまう潔さと思い切りの良さは、私としては「ギンガ」の美点だと思うのですが。あと、二人の「和解」をハグで締めるのも素晴らしいです。二人の著しい身長差が、また良い雰囲気なんですよね(メイキングを見るとさらに微笑ましくなる事請け合いです)。
若者のドラマとしては、スーパーグランドキングから学校を何とか守ろうと、千草がウルトラマンに、健太がティガにライブするという「総変身」状態も熱い。そこに美鈴の父がセブンとして加わる事によって、かつてのグランドキング戦を思わせる豪華な画面が登場する事になりました。本来は、そこに因縁深いタロウが加わって欲しかった処ですが、それは次回までおあずけ。スーパーグランドキングのような巨大かつ重量級の怪獣を巧く狭いセットの中で立ち回らせていて、その工夫はメイキングを見ると本当に見事であると分かります。そこにウルトラマンとジャンナイン、合わせて4人ものキャラクターを配置するわけですから、空間設計が相当大変だったのではないかと思います。
最終的には、スーパーグランドキングをヒカルと美鈴のライブしたギンガが倒すことになりますが、ここでギンガサンシャインなる新技を出し、それによって白井校長も救われるという結果をも生みます。ご都合主義と言われればそれまでですが、流れはごく自然だったのではないでしょうか。ギンガサンシャインがヒカルと美鈴の関係によって生み出されたものだと、素直に解釈出来る画でしたからね。
今回は「ギンガ」全編通して最大の危機編ではないかと思います。
最終話は、活動不能となったギンガに大逆転の瞬間が訪れるという構成になっており、勿論そこに「最強の敵を迎えての最大の危機」が描かれているわけですが、最終話だけあって予定調和にならざるを得ない事は至極当然で、今回の危機描写とはかなり方向性が違います。
その危機感の一端を確実に担っているのは、やはり美鈴の父がライブするウルトラマンダークとウルトラセブンダークでしょう。ダークザギのカラーリングを踏襲したその禍々しいスタイルと、そのラフなファイトスタイルが鮮烈。美鈴の父・誠一郎が取り憑かれた狂気とも相俟って、これまでで最もエキサイティングなエピソードとなりました。
誠一郎がウルトラマンダークとセブンダークを自在に使い分けるシーンは、そのビジュアルエフェクトとサウンドエフェクトの巧みさによって、より鮮烈なシーンとして完成。これで灰色ホリゾントを何とかしてくれれば...(笑)。エフェクトの完成度は、円谷プロのプライドを見せてくれるかのような素晴らしさに満ちていますが、セットのスケールをカバーするまでには至っていないように思え、ちょっと残念です。逆にグリーンバックによるシーン作りの完成度が異様に高いので、余計にギャップが見えるんですよね。また、セットに飾り込まれているミニチュアの完成度は、現在の感覚からすると全話通して高く、贅沢に思える為、ステージの狭さがホントに残念なんですよ。ロングで捉えるシーンが少ないので、画面の変化をギミックで見せていくしかないわけで。その制約が面白いカットを生み出してはいますが、個人的には今一歩に思える部分が多いです。
話が逸れまくりましたが、ダーク兄弟のアクションは本当に素晴らしい!
わざと美しくないパワースタイルで叩きのめし、関節を効果的に攻め、倒れた後もなおストンピングで打ち据えるという残虐ファイトは、そのシルエットがウルトラマンであるだけに強烈なインパクトを持っています。光線もちゃんと発射するカットがあり、音声もオリジナルの掛け声を低めにチューニングしたものが使用されていて、元になったスパークドールが本人である事を理解させます。
割と余裕ある動きで相手を牽制しつつ、時にアグレッシヴに攻めるスタイルを採るギンガですが、今回は完全に翻弄されており、正に手も足も出ないといった状態でした。これまでも危機描写はありましたが、ここまで「叩きのめされる」という描写はなく、いかに特殊であるか、即ちターニングポイントとなる話なのかが分かります。
ちなみに、美鈴の父がダークライブする際の狂気に満ちた目は、さすが野村さんといった処。自らを「支配する側」と呼び、他の人間を見下す視線をも表現しており、今回の構図を如実に示す演技となっています。
もう一つの肝となるシーンは、ヒカルが昏倒し、ギンガスパークとダークダミースパークの相互作用によって、意識下で美鈴の父と対話を果たすくだりです。
これは前述のダーク兄弟のバトルに付随するものとして位置づけられます。実際のバトルが肉弾戦ならば、こちらは精神戦という様相だからです。なので、前述した「集約」という表現に変更はありません。
さて、こちらの「精神戦」は、美鈴の父とヒカルのイデオロギーの相違というには、少し肌合いが異なります。前回、大人と子供の考え方のギャップが示されましたが、今回はそんな単純なものではなく、力を有する者が立つべき場所を、狂気を礎とした解釈によって理解してしまった「親」と、家族というもっと皮膚感覚的な解釈で拒否する「子」の対比です。
ここでの問題は、両者が親子の葛藤を演じるに当たって、親子ではないというズレがある事です。故に、ヒカルは美鈴の恋人というポジションを獲得し、美鈴と感情を共有する必要があったわけですが、如何せんそこに至る尺があまりにも短い為、その辺りが弱くなってしまいました。また、友也の親子が、精神性は全く別物ながらも似たような構図で既に描かれていた事もあって、やや既視感も。ただ、美鈴の和菓子にかける想いが、父親の帰還を願っての事だと説明された点で、ある程度の弱さはカバー出来ていたのではないでしょうか。美鈴の「夢」にテーマを収斂した構成力は見事でした。
まぁ、後は仕事の鬼が自分を見失ってしまうという、オーソドックスな葛藤の翻案になるので、コミカルな要素や大逆転のカタルシスを導入して、解決を派手に盛り上げる手法になっていました。それが、後半のダーク兄弟とのバトルの高い完成度へと繋がります。
途中の「コミカルな要素」は、黒木がライブしたアントラーの磁力光線で、カッキーと友也が下腹部(実際はベルトのバックル?)をくっつけ合ってしまうという、「これでいいのか」的なギャグシーンと、ジャシュラインに三人でライブした健太、千草、美鈴の奮闘振り。
友也に関しては、ギャグシーンにおける、その物凄く不機嫌な表情と、ジャンナインが起動可能となった際に見せる嬉しそうな表情のギャップが素晴らしく、彼のキャラクターの深みが一気に増した印象。ただ、ギャグシーンを含む磁力光線の被害シーンは、やや冗長に思えました。
一方、ジャシュラインに関しては、三人のヒカルの力になりたい、あるいは学校を守りたいという心意気は買うものの、あまりにもギャグに走りすぎていて、あまり役に立たないのが残念。この辺りは、Blu-rayのライナーノーツに記されていたシナリオの変更によるのでしょう。ただし、それだけに次回以降の三人の活躍が爽快になるという事もあるのですが。
結局、アントラーは、復活したヒカルがギンガにライブして倒すのではなく、横槍としてセブンダークのワイドショットが炸裂する事で倒されます。この「ズラシ」はなかなか爽快。その後、再びギンガ VS ダーク兄弟に突入するわけですが、今度は美鈴を軸とした両者の想いの違いがヒカルを有利に導き、ギンガの勝利となります。単純な戦力の優劣で片付かない勝敗には、「ギンガ」のテーマ性が強く感じられるのではないでしょうか。
結果、父がダーク兄弟にライブしていた事を知り、美鈴は闇に引き寄せられてしまうのですが、ここでナックル星人が用いた「同じ血が流れている」という言葉の悪辣さよ! 「帰マン」の頃から変わらない狡猾さに嬉しさを覚えました。
最後に一つ、結局今シリーズでは回収されなかったホツマの正体。今回より謎を深める形で投げかけられています。タロウを知っていて、ギンガの紋章が手の甲に浮かぶという意味深なシーンがそれです。タロウの人形がわざわざ正座のポーズをとらされていたりと実にコミカルなシーンですが、ホツマをより正体不明の人物に仕立てるには充分なインパクトがありました(笑)。しかも、このホツマの扱いは、当初の予定になかったそうで。津川さんの存在感に引っ張られたんでしょうね。
ちょっと時間が出来たのでこちらのブログも仕上げておこうと思います(笑)。「ギンガS」も決まった事ですし。
シリーズ完結後しばらく経過した後の記事ですので、オンエア当時よりも冷静に、かつBlu-rayでの再視聴後の発見、そしてメイキング視聴も含めての意見になりますので、ご理解の程を。
この回は、変身アイテムの紛失譚というウルトラの定番を意識しつつ、過去によってやさぐれた大人と、未来への希望に輝く子供の対比をライトな感覚で描いた爽やかな一編です。
一方で、大人のキャラクターが実に良い味を出しています。ストーリー自体は、特にヒネリも意外性もなく、次々と後の展開が読めてしまうような内容だと思いますが、逆にそんな安心感が巧く作用して、個性的な大人連中を際立たせていたように思います。
今回登場する「大人」は、ホツマ、白井校長、カッキーといったレギュラー陣に加え、前回のガルベロスにライブしていた剛(カッキーの幼なじみ)、美鈴の父、黒木、桑原といった面々。しかも、最終回直前まで学校周辺の空間が閉塞している設定なので、この大人達が第二シーズンのレギュラー扱いとなり、一気に登場人物が増えるわけです。
カッキーこと柿崎太一は、これまで摩訶不思議な出来事に翻弄される「第三者」でしたが、今回からは事件を子供達と共に体験する「当事者」へとポジションを変化させます。美鈴の父達が学校を訪れた際、ヒカル達と同目線で自体を把握・説明している事からも、それが伺い知れます。また一方で、ヒカル達に剛の事について語る優しい口調は「大人」のそれであり、友達と大人のポジションを自在に行き来出来る、肩肘を張らない大人の代表でもあります。これまでのエピソードでは、演じる宇野さんのあまりテレビ向けとは言い難い(詳らかに観察すると実は物凄い巧者である事が分かる)自然体の演技もあって、今一つ存在意義を見出せないキャラクターでしたが、今回で化けたように思います。
大里剛なる人物は、前回ガルベロスにライブしていた元ボクサー。カッキーの幼なじみという設定がなかなか効いていて、二人の対照的な風貌によって、二人の進んできた道さえも差別化されているように見えます。この剛がヒカル達の夢を一蹴するシーンはかなり緊迫感があり、かつ説得力もあります。低年齢層の視聴者にとっては剛が「嫌な大人」に見え、その親の世代が見ると「剛の言う事もよく分かる」となる。この加減が絶妙で、全体的にユルめな作風の中にあって、当シーンはかなりざらついた肌触りを持っています。ヒカルが反論するくだりは、大人が醒めた目で見てしまうシーンになるよう意図されているようにも見え、結構鬱屈した気分を煽られます。
美鈴の父・石動誠一郎は、この回ではそれほど印象に残らないというか、この時点では単に美鈴の父以上の存在ではないと思います。ただ、何故か妙に不気味な雰囲気を醸し出し、仕事に没頭して美鈴とかなりの距離感を持っている事を感じさせる表情はさすがといった処で、野村さんのキャリアの蓄積を存分に感じさせてくれました。後にダース・ベイダーのような役割を担う事になるのですが、そこに至るプロセスを演技プランだけで乗り切ってしまう思い切りの良さ。その辺の匙加減の絶妙さは、本放送終了後の今になって気付くんですよね。
さて、美鈴の父が連れてきた建築関係の人間が、黒木知美と桑原伸吾です。この二人がまた良い風味。黒木役の川上麻衣子さんは既にベテランの域に入る女優さんですが、棘のあるヒステリックな物言いと、食事シーンで見せる食欲旺盛な様子の可愛らしさとのギャップが得がたい魅力を放っており、前シーズンで暗黒面だけがクローズアップされてきた「大人」の描写から、一歩脱したイメージを与えています。これに関しては桑原も同様で、愛想の悪い神経質な職人気質は憎めないキャラクターであるし、ギンガスパークを盗み出すに至る弱さも、単なる「悪」だとは片付けられない説得力に満ちてました。
そのギンガスパークを巡る争奪戦に至ると、一気に「活劇」へと転じます。ここからは、ややコミカルな描写も交えつつも、剛の「立ち直り」を盛り込んでいて、爽やかなカタルシスが得られます。ヒカルの為に奔走する友也や健太、千草のポジションがかなり明確になっており、特にナックル星人の甘言が全く響くことのない友也の確固たる姿勢には、前シーズンで纏っていた影を払拭するだけのパワーがありました。
変身アイテムの紛失は、各シリーズで頻繁に繰り返されているような印象がありますが、実はそうでもないのが意外と言えば意外です。「帰マン」はそもそも変身アイテム自体がなく、「A」~「レオ」はアクセサリー的なアイテムだった為か紛失するという事態がありませんでした。この辺りのシリーズは、むしろ変身アイテムではなく変身プロセス(ポーズ等)に重きが置かれていたようにも見え、同時期の「仮面ライダー」の影響を強く感じる事が出来ますね。「80」もブライトスティックを紛失するというパターンではなく、むしろ(特に教師編では)変身不可能なシチュエーションが重視されていました。「ティガ」ではスパークレンスの強奪がイーヴィルティガ登場に繋がる重要なトピックとして扱われますが、その後のシリーズでは「マックス」を除いて変身アイテム紛失譚はほぼないと言って良いでしょう。ちなみに、最も紛失頻度が高かったのは、セブンでした。
そして、今回は遂に美鈴がギンガライトスパークを手にして、ウルトライブを経験する事になります。
変身アイテム紛失譚で、別の変身アイテムを誕生させ、しかも主人公はそれを使わないという、前代未聞の構成にはビックリで、美鈴のライブしたレッドキングの可愛らしい動きに更にビックリ。これは、その後の「皆でライブ」に繋がる重要なシーンなのですが、極めてコミカルに処理されていて驚きます。レッドキングとザラガスの対決という、なかなかのスター怪獣同士のマッチとあって、画面自体の迫力は良いものがあります。ザラガスのヤマアラシのような最終形態は、いかにも「強くなった」と思わせるビジュアルでしたが、オリジナルの持つ「機械的な物体が生えている違和感」をもう一度生物に引き戻している点において、やや印象が弱いような気がします。
クライマックスでは、ウルトラマンダークが突如登場。次回への引きとしては実に効果的でした。Blu-rayのライナーノーツによると、出番を繰り上げたとか。全体的にバトル自体はユルめでしたので、その効果は如実だったと思います。
前話とのブランクがかなり空いた事もあり、ほぼキャラクター紹介をメインとした総集編で構成されており、これといって特筆すべき事項はありません。
まず、ついに校長先生も怪事件に遭遇。初回以降、殆ど出番がないにも関わらず、ホツマ共々強烈な印象を残す辺り、さすがはベテラン女優の木野花さん。ほぼ新人キャストで構成される「ギンガ」の中にあって、圧倒的な存在感で画面を引き締めます。いわば、若手俳優で構成される防衛チームをまとめる隊長役を、「ギンガ」風にシフトさせた感覚ですね。こうなると、残り少ない予定話数の中でホツマの方もどう扱われるか、俄然楽しみになるというものです。
ここでは、ナックル星人の気持ち悪さとコント風の演出が、妙な魅力を放っており、「ギンガ」が「ウルトラゾーン」の「芸風」を継承している事がよく分かります。
私は劇場版については未見なのですが、総集編の中で劇場版のシーンが多数フィーチュアされているように見受けられました。画面の質感自体は、テレビ放映版と大差ないように見えますが、どことなくタイラントの出で立ちが豪華で、今回の総集編に花を添えていました。
また、季節の移ろいを感じさせるビジュアルの変化にも注目したい処。
目を引くのは、「夏休み」から「二学期」になった事が、美鈴達の制服姿で明確に描かれた事でしょう。これで、「学園ドラマ」のニュアンスがより強まりました。友也も共に行動しており、この辺りの経緯はやはり劇場版にあるようです。一人だけ私服のままの(=日本の学校には通っていない)ヒカルは「目立ち加減」も特筆モノで、新撮の変身バンクが用意されるといった配慮もぬかりありません。
クライマックスは、ダークガルベロスとのバトル。このダークガルベロスの登場は非常に唐突でしたが、バックボーンのない怪獣でも、ギンガ=ヒカルとの会話で徐々にキャラクター性を発揮していく辺り、「ギンガ」のパターンで立ち回る上での慣れを感じ取る事が出来ます。ボクシングスタイルのアクションも、新味がありましたね。スパークドールズを観客にしたショー風の演出は、やり過ぎ感が爆発していますが、この辺りも「ウルトラゾーン」の発展系として「ギンガ」が存在すると考えれば、納得がいく...いきます?(笑)
サブタイトルに即した展開は、本編の最後に少しだけ用意されていて、ブルトンを彷彿させる古典的な異次元体験が楽しい画面となっています。ややテンポの悪さは気になりましたが、「ギンガ」としてはこのくらいが丁度良いように思います。
土壇場の引きとして、美鈴の父親等々が登場。これまで、ヒカル達仲間内における確執と和解をライトな感覚で描いて来ましたが、ここに来て、降星小学校という閉鎖空間の中で、外部(大人)の干渉を受けつつストーリーが回転する事になりそうです。新シーズンを迎えるにあたって、ドラマの構造を変えてくるとは思いませんでしたので、少々驚きつつ、割と閉塞感の強かった「ギンガ」にブレイクスルーが訪れる事を期待しています。
私事で恐縮ですが、仕事の関係で物理的に「ギンガ」の視聴が遅れる環境に身を置いておりますので、ブログ記事のペースが遅くなります。ご覧になって下さっている方々には大変申し訳ございませんが、ご理解の程、よろしくお願い申し上げます。
とりあえず、ヒカルの夢を信じる実直さに、友也が少なからず感化されるという「区切り」を呈して、前半戦を一旦終了としました。
今回は、区切りとしてのケジメらしく、ティガダーク&バルキー星人 VS ギンガ&ジャンナインという布陣でバトルを組み立てており、なかなか見応えがあったと思います。ヒカルが初回のウルトライブでいきなりギンガに変身するカタルシスもさることながら、友也のメンタルの変化に伴ったジャンナインの復活、喋る事で初めて自らの意志を明確に示すギンガといったサプライズ要素もあって、充実していたと思います。
ヒカルや美鈴、健太、千草といった面々は、それぞれ夢に関して印象深いくだりが設けられた事で、キャラクターの個性構築が為されました。一方、友也はミステリアスな雰囲気を与える事でキャラクターを構築してきたので、彼の夢そのものに関するトピックでストーリーを運んでいくのは基本的に不可能。そこで、友也自身に夢がないという解決を提示し、ドラマの原動力としています。
結論から言えば、友也の捉えていた「夢」とは「欲望」が形を変えたものでした。万能感に支配されている友也にとっては、「欲するものが遠くにあるから一生懸命手を伸ばす」という感覚が欠如しており、「夢」に形を変え得る「欲望」など存在しなかったわけです。生い立ちといい、無欲である処といい、何となく「仮面ライダーオーズ」を想起させます。
その友也、前回、中途半端な印象のあった父との会話シーンですが、今回はその前後を含めたシーンが改めて挿入され、何が親子の間にあるのかを明確にしました。
友也は将来父の跡を継ぐ事が決定づけられている人間ですが、父には「夢のない」友也に「向上心のなさ」を感じ、一方の友也は父にレールのゴールとしての価値しか見出していない。この親子の間にあるのは、壁ではなくある種の諦念である事が分かります。特に、友也にとっての父は、自分の将来像としての輝きが完全に欠如していて、そこに「憧れ」といった感情は皆無であるように見えます。
ここで、タロウが「偉大な父を持った子の苦悩」を共有しようと友也に近づいてくるのですが、決定的に齟齬が生じているように見えるのは、そこに「憧れ」の有無が関わるからでしょう。タロウの回想が何となく空振りの様相を呈しているのは、それが原因だと思います。
タロウの場合は、憧れの父のようになりたいという願望を告白した処、ウルトラの父に叱責されたという回想。ところが、このくだりはかなり強引なロジックに縛られており、最終的な「父を超えて欲しい」という結論に至るまで、回りくどいエクスキューズが散りばめられ、少々首を傾げるようなシーンになっていました。タロウの「父のようになりたい」が、何故か「父そのものになりたい」という極端な論に曲解され、「父そのものにはなれない」、「タロウはタロウ」、「父を超えた存在になって欲しい」と展開されていくのですが、正直、ウルトラの父の叱責の元となる心情は理解し難いと思います。それとも、「さすがは大隊長、子供には厳しいね」で済まして良かったのでしょうか...。
タロウには間違いなくウルトラの父に対する憧れがあり、それを素直に吐露しただけに見えます。それを言葉も発さずに(という演出で)頭ごなしに否定してしまうウルトラの父。大隊長の多忙な業務にイライラしていたとしか思えません(笑)。私のウルトラの父に対する印象がやや悪くなるようなシーンでした。折角コタロウまで出してきて、素晴らしい力の入れようなのに。
まぁ、その分、ウルトラの母の優しさが強調されて良かったかも知れませんが、うーむ...。
話を戻すと、友也の父もウルトラの父と同様に「父を超えるくらいの気概が欲しい」と思っているのではないかと導かれる事になるわけですが、それは「タロウの特殊な生い立ちを使った」という点で、非常に効果的でした。
実はこれまで、タロウの生い立ちに関する描写は断片的でした。「ウルトラマンタロウ」本編は、東光太郎がタロウに生まれ変わったような描写で始まりますが、途中でタロウの通った小学校が登場したり、ウルトラ兄弟達との血縁を思わせる会話(実際に血縁関係はほぼない)がある等、何となくタロウの生い立ちが匂わされる事はあるものの、基本的にタロウは東光太郎その人であり、タロウという人が別個に存在していたような印象は皆無です。
少し変化が生じたのは、前述のコタロウの映像デビューとなる映画「ウルトラマン物語」。ここでは、雄々しき父と、ゆかしき母に見守られて強く成長していくタロウの姿が描かれました(タロウの声=石丸博也さんという前提を作ったのもこの映画)。しかしながら、この映画はTVシリーズのダイジェスト版的なニュアンスが強いもので、タロウがいかに他のウルトラマンの戦いに学んで最強の戦士に成長を遂げるかが主眼。コタロウ期に怪獣の善悪を説かれるくだりには、今回の回想シーンの雰囲気と同種の空気が流れていますが、全体的にはタロウの個人的な感情はあまり介入する余地がありませんでした。
従って、今回の回想は、ウルトラマンタロウというキャラクターにとって、大きな意味を持ってきます。父がタロウにとって憧れの存在である事が明確にされ、既に父を超えた戦士として成長を遂げたタロウが、今もなお父を「偉大な存在」と表現し、過去の苦労を振り返るのです。これをタロウのキャラクターにおける革命と言わずして、何と言いましょう。
というわけで、タロウの事ばかり語ってしまいましたが、友也の心に何らかの灯が宿り、この後のヒカルによる「ウルトラマンギンガを倒すのがお前の夢だ」という、メッチャクチャに強引で意味不明な説得にも、頷く事になるわけです。
ヒカルの言は、好意的に解釈するならば、何も将来に見出せない友也に当面の「目標」を与え、しかもそれが「思い通りにならない」という「夢の本質」の換言になっているわけで、友也のブレイクスルーを促すものとなりました。感情に乏しい友也が涙を流し、それがジャンナイン復活に至るプロセス等は、「ウルトラマンギンガ」のテーマを象徴するシーンとなっていたのではないでしょうか。
ティガダークについては、バルキー星人のコミカルな味に圧倒されて、やや消化不良気味だったものの、ヒューマノイドによるアクションはやはり格別に立体的で、本シリーズが持っている可能性を感じさせてくれました。秋から開始の後半戦で、是非とも弾けてもらいたい処ですね。
今回と次回で、前半戦のクライマックスとなる構成なので、一度これまでの流れを整理する意図があったようですね。タロウの回想という形式を採っていたのが巧い処です。
本編はというと、前後編に分けた事でかなり中身がスカスカになってしまったのではないかと思われるストーリーを、色々な手段で引き延ばした印象があり、秀逸なカットが散見されるものの、やや冗長な感がありました。第3話で一悶着あった健太を、今度こそ事件のメインに据えてくる流れは良かったのですが。
「帰マン」や「A」では、ウルトラマンであるが故に理解されず、それとなく疎外感を感じる主人公の葛藤を描くエピソードが多々ありましたが、今回はウルトラマンに関する秘密を共有する者達から疎外される健太を通して、これまでのシリーズとは逆転した構造で見せています。印象的なのは、ウルトラマンに関する秘密の共有を「内緒話」のレベルで扱っている事。千草はラゴンになる体験を通して秘密を知ったので、結果的にスパークドールズの秘密を知る者とそうでない者とで3対1の構図が生まれましたが、友達の間で隠し事があると分かった時の疎外感を描くのに相応しい場面運びで、素直に健太への感情移入を誘っています。
ここでは、どう考えても怪しい美鈴や千草の態度に加え、ヒカルの(厭味にはならない程度の)無神経さが強調されていますが、このようなあまりリアルとは言えない演出も、手早く健太への感情移入を助けるものとして考えれば許容出来るものでしょう。視聴者にとっては、健太に感情移入させられつつも、それが誤解によるものだと理解しているので、前述の「帰マン」や「A」で味わうようなやりきれなさを別の形で味わう事になります。この辺り、年季の入ったファンはニヤリとしてしまうんですよね。
しかしながら、「ギンガ」はそのような鬱展開を引っ張るような作風ではないので、割と早い解決が訪れます。
ダークダミースパークの虜となった健太は、降星町を破壊してそれを写真に収めると嘯くような「悪人」になり、それをヒカルが止めようとするシーンでは、オーソドックスでプリミティヴな「拳で分からせる」という手法が用いられました。言葉でグダグダと説得されるより、こちらの方が分かり易いのは言うまでもなく、正常でない健太を正常に戻す過程で必要なカタルシスを示した好例と言えるでしょう。この健太の「正常でない」描写がミソで、この時点で健太への感情移入は拒否され、視聴者の興味は必然的にヒカルへと引き付けられるようになっています。従って、「友達を殴る」という行為にも自然なカタルシスが与えられる事となりました。
全体の構成から言っても、クライマックスをジャンキラーとのバトルに求めるのが自然であるのは間違いないので、健太に関する解決が、「生身のヒカル」によって行われるというプロセスになったのは正解ですね。また、この一件で、健太がスパークドールズの秘密を知ることになり、結果的に秘密を共有するヒカル達に合流する事になるわけで、その疎外感を根本から払拭して一旦健太の件を解決に導き、今回のクライマックスにおける友也VSヒカルの構図に無理なく繋げています。ここでは、友也による「友達同士のつぶし合い」の意図が吐露され、それに対するヒカルの怒りを描く事によって、ギンガの登場まで一本筋を通しています。この辺りの構成の確かさは見事だと思いますね。
ただ、流れがスムーズでも、やはり冗長さは問題でしょう。
どうにも尺が埋まらなかったかのような印象を与える、回想シーンの数々。友也の回想は思わせぶりなアングルや構図により、彼の孤独感を表現していますが、会話がやや浮き世離れした印象で今ひとつ。ラゴンの回想は、千草の黒歴史をえぐるようで意地悪な質感を伴っている感じがします。
さらに尺を伸ばそうという意図が見えてくるのが、ジャンキラー関連のシーン。
変形プロセスを懇切丁寧に何回も見せてくれるのは、途中からちょっと拷問レベルでした(笑)。しかも、完全にバンクなCGカットだったので、シーンの場所やシチュエーションに応じた変形シーンというよりは、流れをぶった切るアイキャッチャーにしか見えず、折角の地上から宇宙へ展開する縦長なバトルもテンポが悪くなってしまっています。また、宇宙における超美麗な合成画に比べて、やはり地上戦の質感は今一歩という感もあるのも残念な処です。ミニチュアに関しては、相変わらず完成度も高い上に飾り込みも効果的。しかも、スタジオの狭さを感じさせない伝統的なカメラのスライド撮りもあって、スピーディなカットを生み出しているだけに、テンポの悪さは非常に惜しい処です。
変形プロセスだけではなく、ドラゴリーにライドしたヒカルがジャンキラーと対峙するシーンでは、拳(?)を打ち付け合ったまま動かないシーンが妙に長く採用されており、最も著しい冗長さを感じさせました。ヒカルがジャンキラーの「正体」を探ろうとしているカットが挿入される為、その「静止」の意味は理解出来るのですが、ドラゴリーの造形物の所為もあってか、力の拮抗による静止という印象は殆ど持てず、ただじっとしているように見えてしまうのでした...。
最後に、次回への引きの部分ですが、まず、友也がヒカルを助けたシーンについては、「ギンガならば倒せるが、ヒカルを倒すのは無理」という矛盾が実にリアルで感心しました。勿論、友也はヒカルがギンガにライドしている事を承知しているのですが、外見で対応が変わる(一応「友情」や「夢」に対する友也自身の見解を迷わされるカットはある)のは非常にリアルな皮膚感覚でしょう。健太の一件も、この友也に関しても、イデオロギーの尺度では測れない「感覚」が強調されており、それは正常な神経と言えると思います。
そして、ティガダークの登場。
タロウとあまり関わりのないウルトラマンを出してきたのは正解でしょう。勿論、大怪獣バトル以来、多次元宇宙に展開されるウルトラの世界では、タロウがティガの事を知っている筈なのですが、メインストリームでティガがM78星雲のウルトラ兄弟と関わったのは「ウルトラ8兄弟」においてのみ。しかも、「8兄弟」にはタロウは登場していないので、実質的にタロウとティガはかなり遠い存在です。よって、ティガダークが出現してヒカル達に仇なす事があっても、特別な身内意識をタロウが抱いて逡巡するような場面に遭遇しにくいわけです。
ビジュアル的にも、ティガダークは「モノトーンのティガ」という鮮烈さがあって格好良いですし、子供達へのアピール度も高いと思います。引きとしては良いので、何とか巧く盛り上がって前半戦を終えて欲しい処ですね。
元々、本シリーズは「少年少女による夏休みの冒険譚」という枠組みで制作されている為、スケールが云々といった議論そのものが成り立たないのですが、今回はクライマックスのバトルで激しくドンパチしていて、逆にこの閑静な町の無関心ぶりが際だってしまい、箱庭の中の限定空間という印象を強めてしまいました。
問題はやはり「演出によっては」の部分であって、今回のように他所から来た撮影隊が「街」との繋がりを殆ど示唆しないようでは、折角街ロケのシーンがあっても、あるいは街で流れている音楽が聞こえてきても、学校周辺との空間が完全に断絶されているように見えてしまってます。逃げたアシスタント(?)が街中で「怪物を見た」とか触れ回っているシーンがあるだけでも、全然違うと思うんですけどねぇ。街の音楽が聞こえてくるような場所なのに、ジャンキラーの凄まじいドンパチの音が街に聞こえないってのも、どうも...。
さて、その辺りをとりあえず横に置くと、今回の話はキャラクターのドラマとして比較的まともな作りだったと思います。
これまでは、割と正体不明な悪人がヒカル達の前にやって来くる事で及ぶ危険に、スパークドールズの力を使って対処していくというパターンでしたが、前回は、健太のヒカルに対する嫉妬心を盛り込む事で、レギュラー陣の心の機微に少し変化を与え、今回で遂に千草を事件の中心に据えてきました。仲良し四人組に見えても実はそれなりの葛藤があるんだよという、結構円谷らしいというか、意外に鬱展開を許容する作風には、本作のポテンシャルを感じる処です。
今回は、美鈴の衣装替えというバラエティ的なイベント性を押し出す事で、逆に千草の心の闇が強調されるという、印象的な演出が見られます。美鈴の撮影シーンは質感を含めて何となくコントのようなノリでしたが、葛藤する千草を捉えるカットは、どれも寄りと引きの連続を多用した「突き放し」の感覚があり、そこにわざと視聴者の共感を拒むような印象がありました。つまり今回の「ホン」は、嫌がりつつも撮影に応じる美鈴と、それを無邪気に楽しむヒカルと健太よりも、千草に共感させるような内容だったのですが、演出側はその逆を狙っているわけですね。何故そのような狙いになったのでしょうか。
それは、ラゴンとギンガが対峙するシーンで、ヒカルが言い放つ「お前の心は真っ黒だ」という一言に説得力を持たせる為でしょう。千草に感情移入させると、ヒカル達は総出で千草に謝らざるを得なくなり、ギンガの存在意義そのものが失われてしまいます。それは「夢の肯定者」であるヒカルの存在意義をもスポイルしてしまうでしょう。その点で、本シリーズが模索する「夏休みの冒険譚でウルトラマンを使う」という方針が、いかに困難を伴っているかが浮き彫りになるのです。
全体的に今回の画面の肌触りが冷たいのは、ヒカルや美鈴達にも共感出来ない上に、千草への共感も拒否されているから。そこに「Q」の音楽好きのラゴンが持つ独特の哀愁が乗っかった処で、空回りするのも当然でしょう。
ところが、実は今回、ここにホラーコメディの要素が加味されていて、実はそのジャンルとしての「ドライな画面作り」は一定以上の成功を収めているのです。
ラゴンが、等身大だと滑稽ながらも異様な恐ろしさを発揮する事を最大限に利用し、登場人物を次々と驚かせるのは定石通りで、そこに千草の意志があまり介在していない(自分の執着する音楽に吸い寄せられる「本能」に支配されている)辺りも巧い。千草のウェットな嫉妬心を殊更増幅させるような事はせず、あくまでドライに。この方針によって、千草は事件の後でも元の場所に戻る事が違和感なく出来たわけです。千草というキャラクターにとって、その心の闇をドライな雰囲気で突き放されたのは、結果的にプラスになったと思います。
ちなみに、先に「ラゴンが空回り」としましたが、この「空回り感」が逆に千草のもどかしさを強調していたのも面白い処で、やはり今回はこの演出で正解だったんでしょうね。
クライマックスの巨大戦ですが、相手が千草と分かった以上、まともに戦う事が出来ないわけで、前回では違和感のあった「会話」が今回は違和感のない形に落ち着いています。「会話」と書きましたが、実際は千草は黙ったままで、それが却ってヒカルの「説得」を際立たせていました。ここに胸のすくようなカタルシスはありませんが、バランス自体は優れていたのではないでしょうか。ギンガの技も優しいものでしたし。
このラゴン戦が地味だった反動か、ジャンキラー突然の襲撃では、昔のSEを擁した大爆撃を展開。所々明らかに解像度が異なるライブフィルムが挿入されて「?」となりはしましたが、これまでの鬱憤を晴らすかのような爆破の数々は圧倒的でした。友也の意図は殆ど分からずじまいで、タロウの出番もない、非常にミステリアスかつ唐突な登場でしたが、ジャンキラーの無機質な機能性が不足なく発揮されていたと思います。
爆破シーンと絡む事がないので、ミニチュア特撮の醍醐味の一つは完全に失われていますが、建造物、特に校舎のミニチュアや道路のセットはなかなか緻密で、高解像度のコンテンツでも、ミニチュア特撮はまだまだ行けると感じました。配置が巧いので、いつものグレーのホリゾントによる狭小感もあまり感じませんでしたね。ただ、1話や2話のような印象的なカットには乏しいという感想も持ちました。ジャンキラー関係の描写は奮っていましたが。
全体的に、ややシリーズに対する不安を感じる処ですが、次回は豪華な巨大戦に期待出来そうな顔ぶれです。どのように魅せてくれるか楽しみですね。
ストーリー自体は、美鈴を意識しつつも一歩引いたポジションに居る健太の、微妙な心の動きを追ったもので、その心理の脆さに関する描写が今回の狙いを良く現していました。
しかしながら、完成作品自体はあまり良い出来とは言えなかったのでは...。
実際、今回の健太に関する動きは総じて良い印象があります。
美鈴を意識するあまり、カメラマンの夢をとっくに諦めたと強がってみたり、逆にカメラマンの夢を諦められないが故にユウカの誘いに躊躇無くのぼせてしまったりと、心情描写が巧い。面白いのは、健太の心情というか情念といったものが「テンション」という言葉を用いて表現されている事で、彼の写真に対する情熱は「熱した冷めた」ではなく、あくまで「ノるかノらないか」という尺度である事。これは、ユウカの持つ「炎」の属性と対比されているようで、土壇場で健太がユウカのダークサイドに同調しなかった事の根拠の一つとなっているように見えます。
一方で、ユウカの描写が抽象的で、エピローグで泣き崩れるシーンにしかアイデンティティが現れず、非常に分かり難いキャラクターになっている為、健太がスベっているように見えてしまうのも否めない処。
実は、今回の「良くない部分」の殆どは、このユウカの存在に関わります。
レギュラー陣以外の人物が現れるという事は、それがダークライブする者であるという事になりますが、前二話の該当者と比べるとその異質さが唐突な印象。しかも、事前に健太を観察するバルキー星人のシーンが存在する為、健太にダークダミースパークが与えられるのかという誘導が表出してしまい、余計にキャラクターのポジションが混乱しています。よく観ると、ユウカの正体を「分からせる」為の色々なカットが織り交ぜられてはいるのですが、途中まではユウカがバルキー星人の変身で、健太がキングパンドンになってしまう展開かと勘違いしそうになる感もあり、今ひとつ整理されてない雰囲気です。
ユウカの異質さは、彼女の心の闇が前二話の単純化された「悪」とはかなりベクトルを異にする事から来ているわけですが、今回は、タロウの顔を赤くするギャグシーンまでユウカの正体を判然とさせない意図があり、バルキー星人にダークダミースパークを与えられる「理由」が全く見えてこないのです。勿論、ラストでの号泣や、戦闘シーンでの(長くて辟易する)やり取りから、彼女の「夢破れ」や「放火魔」という側面は見えてくるものの、殆どがセリフで説明されてしまうので(しかも適切でないシーンで...)、ドラマの流れはスムーズでない上にテンションも下げられるという、悪い効果のダブルパンチに見舞われてしまったようです。
高校生という、まだ夢の実現性を疑わない年頃と、既に夢破れて自暴自棄になる体験を経た年頃とのギャップというテーマは、不足なく描かれているとは思います。しかし、ユウカの狂気を表現する為のアバンギャルドなカット(これ自体は良い感じ)と、ギャグシーンとがあまりにも交差し過ぎていて、ドラマのテンションが乱高下し流れの理解を妨げている節があるのです。ユウカの狂気に取り憑かれる前にあったであろう元々の心情に関しては、私のような年代にとってはグッと響いてくるものがあり、ヒカルよりも共感してしまう部分があるのは否めないので、見終わった後にやるせなさとして残る余韻も素直に良いと感じるのですが、正直「ウルトラマンギンガ」全体の狙いとして正しかったかどうかは疑問です。
そして、今回最も眉をひそめたのは、白眉でなければならない筈のクライマックス。
ケムール人へのライドは、素早さを求めたという事なのでしょうが、ヒカルの身体能力自体も高そうなので、印象は今ひとつ。「誘拐液」が引火性というのは面白いギャグでしたが、その「誘拐液」自体の使い処がタイミング、絵的な分かり易さ共々微妙。この「放火」シーンについては、色々と言いたい事は山程ありますが、最後の最後、キングパンドンにライドした時、学校の建造物はどうなったのかを、ボカすどころか完全に「無視」しているのが実にいただけない。光の粒子になって別の場所で実体化するとかならば分かるのですが...。しかも、ユウカは「放火」という破壊衝動の具現者なのだから、学校を破壊する勢いを持っていてこそ納得出来るキャラクターなのに、そこがまるでスルーされています。ヒカルがその破壊を阻止する為に、身体を張って学校から連れ出すとか、そういった「肉薄」が非常に気迫です。
「肉薄」の希薄さは、巨大戦に突入してからもずっと続きます。
ケムール人はいつ巨大化したのか不明瞭で、スケール感の切替が物凄く下手だし、キングパンドンは長ったらしい「炎をバックにした咆哮」が続き、イメージシーンなのか現実描写なのか全く分からない。しかも、炎バックの後は例のグレーのホリゾント(これ、ホントに何とかして欲しい...)で素っ気ないので、もはや何を描いているのかも分からないと来ています。スタジオの制約で火器を使えないのか、キングパンドンが火を吐くシーンは合成で、その後に炎が合成されていない画で弾着とか、前後のカットの繋がりも希薄。挙げ句の果てに、怪獣、怪人の姿で互いの「夢」に関する論議を始めてしまうので、アイタタタ...となってしまいました。
あと、ミニチュアの精度や、見上げるアングルは相変わらずとても良いのですが、俯瞰ショットになるとスタジオの境界が思いっきり露呈していて、ちょっと首を傾げたくなるような画に。何故、今回はあのような俯瞰ショットを入れてきたのか、疑問です。
ギンガへの変身のきっかけが、健太の夢を踏みにじる者に対する怒りだったのは、「美鈴を守る」という前回までのきっかけとは差別化されていて良かったと思います。ただ、やはり前述の「議論」が間延びしまくっていたので、スムーズに繋がってこないのは残念でした。ギンガ変身後は、色々なアクションを期待したものの、結構あっさり。更に、新しい必殺技は剣なのに切断に結びつかない、地割れの「特撮」はなかなかの完成度だったものの、カットの繋ぎがギクシャクしていて何が起こっているのかよく分からない等、前回の手際の良さはどこへ行ったのかという感じでした。うーむ...。
逆に最後、友也のタロウ誘拐、衛星軌道上のジャンキラーという衝撃は、ドラマパート、特撮パート共に及第点以上の出来。こうした合成を前提としたシーン作りは巧いのですが、どうも「特撮」がねぇ...。今、制作サイドが抱えている問題を如実に見せつけられた気がします。若年のキャストを使いつつもドラマパートは無難にまとめてきているので、もっと「特撮」が有機的に完成度に貢献するようになれば...と期待します。
とはいえ、全体的にはホラーコメディのテイストが横溢しており、やはり「ウルトラゾーン」的な印象が強かったように思います。いわば、ウルトラマンの登場する、「ウルトラゾーン」のドラマパートといった処でしょうか。話の深みといったものにはあまり期待出来ないものの、ウルトラの諸要素(ウルトラ念力のエフェクトとか!)をショー的に再構築したジュブナイルとしては、なかなかよく出来ているのではないかと。
クライマックスのギンガ登場に至るプロセスは、実は前回と構造が殆ど変わっておらず、あまりストーリー的に新鮮味がないのは、短期決戦シリーズにしては少々痛い処なのですが、前回ヒカルがギンガに変身出来た事の意味や、美鈴との秘密の共有に関する意識の発展に関しては、概ね丁寧な感触の描写があり、良かったと思います。
興味深いのは、等身大戦を生身のヒカルでやっている事。
前回、ヒカルが肉体的なダメージを被るのは、後にサンダーダランビアとなる廃棄業者の二人組による暴力でしたが、今回はケムール人の姿によるもの。投げられて掃除道具に激突したり、殴られたりと、結構な暴力描写なのが意外に恐ろしく、この辺りはウルトラとしては新しい感覚。むしろ、東映の特撮TVドラマに近いテイストになっています。
ここで巧いのは、美鈴が奮起してヒカルのピンチを救う展開に繋げている事で、これにより、常に(しかも幼少の時から)守られるだけの存在だった美鈴が、ヒカルの戦う勇気をサポートする存在に変化したのを表現していました。ケムール人の「急所」がヒトの男性と共通していたのには笑ってしまいましたが。
そのケムール人、「ウルトラゾーン」で何度も登場し、その独特な走り方がコミカルに強調されたのは記憶に新しい処。「ウルトラQ」に登場したオリジナルは、科学に対するエスプリを体現し、しかもホラーテイストに溢れた、文字通りの「怪人」でした。「ウルトラマン」ではメフィラス星人の傀儡(実は単なる虚像?)として数カットのみ登場。ちなみに「ウルトラマン」最終回に出現したゼットン星人はケムール人に酷似しており、かつての一部書籍ではケムール人と見なされていた事も。現在では、ゼットン星人自体のデザインがケムール人と完全に差別化され、別の宇宙人として扱われています。ゼットン星人のキャラクターが真に明確化したのは、「ウルトラマンマックス」からでしょうか。
「ウルトラゾーン」で強調されたケムール人のコミカルさは、その善し悪しは別として本作でも存分に活きており、「追跡魔」の粘着質なキャラクターと相俟って面白い風味となりました。いわゆる「誘拐液」も健在で、生理的嫌悪感をも感じさせる演出は多分にホラーテイストですが、何となくコミカルな雰囲気に支配されているのは、ケムール人というキャラクターの時代を経た変化を如実に示しているように思います。
巨大戦では、前回の「敵」であったサンダーダランビアを早速使用。その能力を既に理解した上で、戦略的に使おうとするヒカルの「知能」の高さにまず感心します。また、サンダーダランビアの能力は有効ではあったものの、ケムール人の素早さには翻弄されてしまう辺り、重量級の怪獣のデメリットまできちんと描いていて良い感触でした。勿論、「第一形態」である怪獣が不利でない限りギンガの出番はないわけですから、必ず「第一形態」が危機に陥る必要に迫られるわけで、今後、このような能力的な面での整合性を毎回見せられるかが見所と言えるでしょう。「ウルトライブ」の流れ自体は定番化していく筈なので、同じパターンに則った上でいかに変化をつけられるか、いかに納得させられるかが鍵になると思います。
今回はナイトシーンとあって、電飾が従来より広い面積を占めるギンガにとっては良いアピールとなりました。「ウルトラマン」からして、第二話はバルタン星人との決戦がナイトシーンとなっており、そのオマージュと受け取る事も出来ます。残念ながら、全てのクリスタル状のパーツが電飾になっているわけではありませんが、あまり光らせすぎてもメリハリに欠けるので、頭と胸だけで充分でしょう。それにしても、美しい造形ですよね。
また、ナイトシーンならではのメリットとして、セットの広さをあまり意識させないで済むという事が挙げられます。実際、前回よりも画面に奥行きが感じられましたし、高い解像度による「アラ」も露見しにくかった事が分かります。しかし、そのメリットをただ享受するだけに留まる事なく、様々な工夫が観られたのも特筆すべきポイントでしょう。
まず、ミニチュアと実景(いわゆる本編パート)の合成が、殆ど合成マスク(CG合成の境界という意味で)を判別出来ない程巧みで、唸らされました。ケムール人が巨大化してヒカルと美鈴を踏みつけようとするシーンも、殆ど違和感なく観られる素晴らしさ。建造物のミニチュアは最小限の物量ながら、効果的な飾り込みによって高い効果を上げており、「手練の技」を見る事が出来ました。「低予算」とも揶揄される昨今のウルトラですが、創意工夫が見られる画面作りはやはり健在だと思います。
巨大戦のクライマックスでは、何とケムール人を宇宙に投げ飛ばし、ギンガ自らもそれを追跡して打ち倒すという、これまでの地球を舞台としたウルトラでは類を見ない格好良さが炸裂! 空を「初めて」飛ぶシーンでは、いわゆる「シュワッ」と両手を挙げて飛ぶのではなく、フワリと、しかもスピーディに浮遊し、空気を蹴って大気圏を離脱するというアニメチックな演出が見られ、その格好良さを倍増させていました。美鈴の反応も良かったですよね。
さて、ヒカルと美鈴に関してですが、この二人の関係性はウルトラでは非常に目新しいものだと思います。
数年振りの再会なのに、既にお互いを意識しているというのは安直に見えはするものの、実は「再会」ってこんなものなのかも...と思わせる雰囲気作りはなかなか巧みで、今回、その印象をより一層強くしました。というのも、美鈴がヒカルの元を離れようとする一方で、いわばヒカルの「実家」である銀河神社のバイトを辞めようともしないその矛盾に、年頃ならではの掴み所のなさを感じ取れたからです。中でも二人の戸惑った表情を引き出す演出がいい!
さらに、「秘密の共有」というくすぐったさが、これまた恋愛系ジュブナイルの雰囲気を倍加しているようです。これは防衛チームのあるシリーズではまず無理な話であり、本シリーズの狙い処が分かると思います。単なる特撮工数の削減という狙いも勿論あると思いますが、それ以上のメリットを確認しておくべきでしょう。
次回は、予告を見る限り早速ケムール人を「使う」ようで、バルキー星人との等身大戦が見られるかも...?
そして、今回初登場のレギュラーキャラクターである一条寺友也の動きも気になる処。
異例の長期オンエア番組となった「ウルトラマン列伝」にて、時折挟まれる編集回や「ウルトラゼロファイト」で多少の渇きは癒やされたものの、やはり物足りないものがあったのも確か。4クールのフルレングスシリーズとはいかなかったものの、ここにきて、「列伝」枠内で新作が見られようとは。
ある意味、ウルトラへの「偏執的な拘り」は一連のウルトラマンゼロに関する作品で払拭されており...というより、ウルトラマンのフォーマット自体が、連発されるブランクで徐々に受け入れ土壌を失ってしまい、もはや防衛チームも、怪獣の出現する過程を描くドラマも、ATGのような突き刺さる前衛性も、懐古的な趣味と一括されてしまうような時代になってしまいました。
故に、「大怪獣バトル」は、怪獣自体がレイオニクスと呼ばれる怪獣使いの使役する「戦いの道具」とされ(それを逆手に取り、主人公のレイは、道具を超えた関係性を築く事で最強のレイオニクスとなるのですが)、「ゼロファイト」でそこにあるのは、既に確立されたキャラクターが一定のシナリオに乗って動き回る仮面劇。そこに「怪獣の出現と対処が生み出すドラマ」は皆無なのです。
「ウルトラマンギンガ」初回は、このような状況を踏まえた上で、ウルトラシリーズのフォーマットは敢えて形骸として捉える事により、新しい作風を確立しようという苦慮が垣間見られました。
近年は、キャラクターものの商品サイクルが短く、1年弱である事が非常に顕著である為、4クールの間にコレクション性の高いトイを多売するという手法が好まれており、特に平成ライダーはそれが当たり前となっています。ウルトラは、過去のキャラクターのソフビ等が現行キャラクターと同等かあるいは上回る求心力を持った特異なシリーズではあるのですが、シリーズ自体の弱体化は否めず、思い切った(マーチャンダイジング的な)テコ入れとして、いわゆる「ゴーカイジャー商法」が導入されたのは、想像に難くありません。
その「商法」についての是非は議論を避けるとして、問題はその「商法」を前提としたコンテンツ作りが結果としてどう出ているかです。
結論から言ってしまえば、結果については、私は概ね満足です。
まずは、「ゼロファイト」で顕著だった、オールスタジオ撮影+オールグリーンバック撮影に、ウルトラを制作する体力の低下をまざまざと見せつけられていた中で(CG否定派ではないですが、スタジオの狭さが透けて見えていたのは残念)、このようなロケを多用したドラマパートと、本格ミニチュア特撮による特撮パートが取り入れられた作品を見る事が出来た感動。
それでもまだ、近年のスーパー戦隊シリーズのスケール感に比べると劣ってはいますが...。その辺りの違いについては後述。
続いて、「ソフビで色々なウルトラマンや怪獣に変身出来る」という、この上なく荒唐無稽で二番煎じ的な設定を、新鮮に、そして説得力を持って描いていた事。
先達のディケイドとゴーカイジャーの2大ヒーローは、基本形態があって、そこから二段変身で過去のヒーローに変身するという流れでしたが、今回は、まずギンガ以外のキャラクターに変身し、後からギンガにも変身するという流れになっています。次回以降はどういう流れになるか分かりませんが、とにかくあらゆる形態への変身能力をギンガの特殊能力としていないのです。
また、変身の過程もソフビの足裏のマークをギンガスパークで読み取るという、先達以上に即物的な手順。これを、トイと全く同じプロセスでケレン味無く見せており、この辺りの、日常とのリアルな地続き感はウルトラっぽい感じがします。
しかも、先達が絶対に為し得ないアドバンテージとして、いわゆる敵キャラクターである怪獣にまでチェンジ出来るという発想。ここもウルトラならではですね。怪獣をキャラクターとして大事にしてきたウルトラのブランド力、それの為せる技だと思います。
一方、ドラマパートに関しては、近年の状況を踏まえた形で防衛チームを完全に撤廃。主人公とその周囲は生粋の一般人、しかも高校生がメインという、ウルトラでは初の試みとなっています。しかしながら、そこに違和感があまりないのは、「レオ」で防衛チーム全滅後にホームドラマをメインに据えた経験や、「80」で学校をメインの舞台にした経験がある事に加え、「ウルトラゾーン」ドラマ枠の延長線上にある感覚を見て取れるからでしょう。
そう、「ギンガ」全体の日常性と非日常性の絶妙なバランス感覚、「日常」を体現するキャラクターのリアリティ、「非日常」を体現するキャラクターのコミカルさは、正に「ウルトラゾーン」の延長にあるのです。
そこに気付いた途端、タロウのコミカルな言動は一気に腑に落ちます。タロウこそが、日常のヒカルを非日常に誘う重要なキャラクターであり、「ウルトラゾーン」で試みられ、一定の成功を収めた「非日常の在り方」といったものを体現していると言えます。バルキー星人の異様に珍妙な言動にしてもそうです。
現在、タロウのDVD-BOXを入手したので見ているのですが、あのコミカルなキャラクターをやれるのは、タロウしかいないと確信します。勿論、「ギンガ」に登場するタロウは、「メビウス」以来のタロウであり、かつての東光太郎とはイメージが異なるキャラクターですが、オリジナルのタロウも怪獣と一緒になって踊ったり、餅つきをしたり、塩漬けをしたり、バケツで水をぶっかけたりといった、数あるウルトラヒーローの中でも突出してコミカルな戦いを繰り広げたキャラクターです。それでいて、決める処はバッチリ決める。そんな硬軟取り混ぜた随一の魅力を持つウルトラマンの筆頭は、タロウだと断言出来ます。
ヒカルを初めとする高校生達も、なかなか個性が強くて魅力的です。女性キャラに関しては、ちゃんと「分かっている」感じの演出がなされているのもいいですね(笑)。高校生と対比される大人にも、津川雅彦さんや木野花さんといった、キャリア、知名度共に贅沢なキャスティングがされ、ドラマパートの空気感にリアリティが与えられています。それが廃校に設えられた仮説神社という突拍子もない舞台だったとしてもです。津川さんが出てくるだけで、その「場」を納得するしかなくなる凄さ。トイのプロップ化でしかない「御神体」へのリアリティ付加までが成し遂げられています。凄い。
全体的にドラマパートには「緩さ」が漂っているのはご覧の通りですが、これも「ウルトラゾーン」の延長ではないかと思います。この「緩さ」が全てプラスの方向に働いているわけではないですが、初回を見る限り特撮パートのテンションとのコントラストは巧く作用している印象を受けました。
さて、その特撮パートですが、久々に「現代日本の建造物のミニチュア」が登場し、ミニチュア自体もなかなか精巧。カメラワークも往年のノウハウを継承したかのようなものであるのに加え、怪獣やウルトラマンの巨大感を出す為、ローアングルの多用が見られます。この辺りも「ウルトラゾーン」の特撮パートを発展継承させた雰囲気。
ただし、ややスタジオが手狭なのか、ミニチュアの爆発は「燃える」というより「弾ける」といった画でまとめられており、やや迫力に欠ける部分があったのは否めません。また、林の木々の飾り込みの巧みさや、地面の質感、ウルトラマンと怪獣の重量感と格闘のスピード感といった点は素晴らしいのですが、ホリゾント(背景)がグレー一辺倒で奥行きに欠けており、ここでもスタジオの狭さが露見しています。
特に、ギンガサンダーボルトを放つシーンには周囲の山々が合成され、壮観な画作りが素晴らしかったので、余計に他のシーンにおけるグレーのホリゾントが強調されてしまったようでした(周りの山はどこへ行ったの?的な)。一つ一つの要素は「特撮的」で非常に完成度が高いのですが、手狭なスタジオでいかにそれらの要素を組み合わせてスケール感を出すか、といった部分に課題を残しているように見受けられます。ハイビジョン制作であるが故のアラと言うにはちょっと違うわけで、この辺りは次回以降に変化を期待したい処ですね。
最後にサンダーダランビアについて。
オリジナルは「ダイナ」のネオダランビアですが、実は「ギンガ」の新怪獣。「サンダーダランビア」という名前の怪獣は、「ギンガ」に初登場したわけです。まぁ、ネオダランビアとの差異が分かりにくいので、インパクトはやや薄かったですが...(笑)。
それでも、過去の怪獣一辺倒でない姿勢は好感が持てますし、新しい物を作ろうという意気込みは如実に伝わってきます。関連トイの売れ行きも良いスタートを切ったようですし、11話で終わるのは勿体ないコンテンツなので、盛り上げていきたいものですね。