ブレイブ14「あぶなァーい!スピリットベース」

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

 サブタイトルからすると、よく戦隊シリーズの中だるみ期に挿入される「基地バレ」編っぽいですが、その辺りの緊張感は皆無のアミィ編。

 何故緊張感がないのか。それは、ラッキューロという類い稀なる「可愛い幹部」の奮闘に、不覚にも感情移入させられるからであり、さらには、キョウリュウジャーなら何とかするだろうという、異様なまでの安定感が漂っているからでもあります。

 そういう視点で見ると、悪役ドラマ偏重、マンネリといったネガティヴなタームが並んでしまいそうになるわけですが、そこは「キョウリュウジャー」。ラッキューロにはドラマが生じるわけではなく、あくまで「こういうキャラですよ」という「軽さ」が見られますし、そもそもデーボモンスターからして完全にギャグキャラ扱い。一方で、アミィの「お嬢様修行」が、これまたドタバタを練り込んで描かれている為、余計に賑やかになり、マンネリどころかまたまた新しい魅力をアミィから見出す事が出来てしまいます。

 とにかく楽しけりゃ何でもやる。そんな姿勢が如実に感じられる一編でした。

 最初に触れておきたいのは、デーボ・キビシーデス。

 稲田徹さんという「戦隊の至宝」を得て、見事なまでに活性化された屈指のギャグ系怪人です。

 今回の、あざとくて素晴らしいというアンビバレンツな魅力は、このキビシーデスが一手に引き受けている感がありますね。というのも、まず「いつやるの?今でしょ」という「旬」を素早く取り入れている辺りのあざとさが痛快。しかも、他のパロディが一様に教育ジャンルでない部分に応用されているのに対し、今回は正当に教育ジャンルへの適用が為されています(笑)。一方で、どことなく「金八先生」を意識した言い回しが登場し、ノスタルジィを感じさせる等、「親世代」への配慮もバッチリ。テレビ的な「先生」と言えば、ある世代にとっての代表格は坂本金八なわけで、この辺りのいい意味での「しょうもなさ」は抜群でした。

 そして、キビシーデスのラッキューロに対する「教育」の様子は、非常に正当派ながらも、最後の手段が「体罰」であるという、社会問題をエスプリにしてしまった処が実に鋭利。ラッキューロは「悪の幹部」でありながら、その「体罰」の被害者でもあるわけで、通常ならば「悪の組織内での出来事」である筈が、ラッキューロの特異なキャラクター性により、エスプリとして機能してしまったのです。補強として、和服のアミィを縛り上げて細い電撃棒でシバく(寸前に至る)という、子供向け番組の枠を超えた(笑)描写により、「体罰」の残虐性を印象づけています。

 ただこの辺り、字面としては「鋭利な批判」でありつつも、全体的にどこかジョークに貶めている語り口になっていて、ブリティッシュな乾いた笑いを思わせ、何だか格調高いなぁ...と思った次第です。

 ちなみに、キビシーデスのような「教育系怪人」の戦隊における元祖(本邦ヒーロー番組における元祖?)は、「バトルフィーバー」のベンキョウ怪人ではないでしょうか。勉強が大好きなベンキョウ怪人に、バトルフィーバーはおろか敵組織のエゴスまで翻弄されるというドタバタコメディでありながら、一方で女スパイモノの要素を色濃く取り入れたテンションの高い一編です。このテの教育系怪人は、「デンジマン」にてまず鉛筆怪物ジュクラーに継承されます。ジュクラー自体はわざわざ子供サイズのスーツが作られるなど、かなりコミカルに描かれながらも、実体は教育現場の堕落という空恐ろしいものでした。続く「サンバルカン」には、あまりにもそのまんまな見た目がインパクト絶大な、トビバコモンガーが登場。こちらは教育現場でサンバルカンに対する嫌悪感を植え付けようという、どこかのお国が国家レベルでやっているような陰謀を実行に移しました。トビバコモンガーの回は、潜入モノのセオリーも踏まえていて、さながら刑事ドラマのような重厚さもありましたが、エピローグで突然挿入されるサンバルカン体操のインパクト(「今流行ってるんですって?」という嵐山美佐の珍妙なセリフや、エキストラ?の子供達が殆ど踊れていないとか・笑)にかき消されてしまいました...。

 そういえば、キビシーデスの口から、何故スピリットベースが日本に存在するかという疑問に関する回答が語られていましたね。敵キャラを利用してヒーロー側の基礎設定を語らせるという手段は、好んで用いられる方法ですが、今回のそれは、軽妙なテンポを崩す事なく必要な情報が凝縮された、完成度の高いものだったと思います。

 続いて、ラッキューロにも触れておかなければなりませんね。

 これまで、目立った単独回はなく、今回が初単独回となるラッキューロ。カオス以外の幹部が登場しないという徹底した配慮により、これまでのキャンデリラやアイガロンの「付き人」的なイメージから大きく脱却を果たしました。

 ラッキューロは、彼自身を含め、幹部によって「喜怒哀楽」を現しているにも関わらず、何故か「戦騎」ではなく「密偵」の肩書を持ち、他の幹部より一歩引いた立場である事が設定されています。これは、往年の戦隊における「女スパイ」と「巨大化担当」を合体させたキャラクター故であり、特に「巨大化担当」は、他の幹部担当回でも「出勤」しなければならない立場にあるからだと容易に理解出来ます。ただ、「喜怒哀楽」の「楽」を担当するという扱いを有するからには、メインを張る必要性もあるわけで、「控え」と「出張り」をどう調整するかが見所だったとも言えるでしょう。

 今回、その調整を行うに当たって導入された概念は、「楽」という字が持つ別の側面でした。それは、「楽しい」というメインの概念とは別の、「安楽の楽」。つまり、出来る限り働かずに楽をしていたいという、およそ悪の組織の構成員とは思えない性格です。

 この、非常に素晴らしい「調整」によって、ラッキューロのポジションを崩す事なく、彼がメインを張るエピソードを構築出来ました。「楽」を「怠惰」にシフトさせ、それを見かねたカオスに焚き付けさせるというプロセスは、自由な発想が理性を持った瞬間を目撃したかのような面白さに満ちています。大袈裟ではなく。故に、今回のラッキューロは、インパクトのあるキャラクターに囲まれていても存在感をアピールしていたし、「体罰」の被害者として感情移入が許されたのだと思います。

 また、基地爆破という、ヒーロー側の根幹に肉薄する手柄をあげそうになったのが、このラッキューロだという「ギャップ」も、面白さに溢れていますね。

 その「ギャップ」ですが、最も体現していたのは、アミィでしょう。

 アミィはお嬢様でありながら行儀が悪いというキャラクターであり、その片鱗は華麗な足技に顕れていますが、今回はさらに「女子力のなさ」という、これまた旬なキーワードを付加されています。

 この「女子力」という概念は、私などはホントにどうでもいいと思ってしまうのですが、事実、アミィの「女子力のなさ」は非常にキュートに描かれており、この辺り、またエスプリにしてしまっているのではないかと思われます。今回、アミィに欠けているとされているのは、「お嬢様ならこのくらい当然」という「優雅な振る舞い」であり、バイトの様子はともかく、「足に関する所作」や「お茶」といった表面的なもので、彼女の本質的な「女性らしい部分」という点については一切触れられません。まぁ、ワザとやっているのは明らかでしょう。要は、わざとらしくやれば可笑しいからです。足が痺れて変身不能といった描写などは、その最たるもの。アミィの「行儀の悪さ」をコミカルに描く事で、逆にアミィに魅力を付加しているわけですね。

 ただ、クライマックスでの、「爆発させちゃえば」というアミィの発言と、この「行儀の悪さ」はやや繋がりが弱かったように思います。アミィの「行儀の悪さ」は豪胆であるが故のものではなく、あくまでお嬢様という肩書が窮屈な女の子の、ささやかな反抗心の顕れといった感じなので、「アミィならではの思いつき」だと囃し立てるエンディングには、ちょっと違和感がありました。行儀の悪さをアピールするエピローグが非常に魅力的だったので、余計にそう思ってしまいます。

 ちなみに、巨大戦のメインが、この「爆弾を宇宙に捨てる」というシーンだったので、前半に獣電竜と巨大ゾーリ魔の戦闘が挿入されていました。当該シーンは、オープンセットとミニチュア、そしてCGの相性が非常に良く、見応えある画に仕上がっていました。獣電巨人よりも、獣電竜の描写の方が気合いが入っているように感じられるのは、私だけでしょうか(笑)。

 次回は、ノブハル編ですね。威吹鬼こと渋江譲二さん登場で、ややシリアスな回になりそうです。ここの処ギャグ編の完成度がすこぶる高いので、どう魅せてくれるか楽しみですね。