第41駅「クリスマス大決戦」

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 文字通り、クリスマス三部作のクライマックスとなるエピソード。

 前回が危機的状況を煽る「転」を全面的に担っていたのに対し、やはり今回は「結」。しかしながら、雰囲気的には前回の「鬱展開」を大いに引き摺っていて、最後の取って付けたような巨大戦にのみカタルシスがある感じになっています。

 とは言え、グリッタとゼットを巡る様々な思惑が収斂していく様には、別種の快感が感じられました。年末編は、最終話かと思うような盛り上がりを見せて、年明けから失速してしまうパターンも散見されますが、今回はシリーズ構成としても妥当な盛り上がりを持ってきたと思います。

 今回最も衝撃的だったのは、シャドーライン陣営の「スリム化」でしょう。これは終盤に向け、ゼット中心に回していくという意図の現れ。ゼットに敵対するシュバルツとノアを退場させ、グリッタは最終のワイルドカードとして、とりあえず脇に退避させておくというのが、シリーズのストラクチャに対する今回の役割でした。

 ただ退場させるだけではつまらないと言わんばかりに、シュバルツとノアに関してはキャラクター性にグッと厚みを持たせていました。そして、これは多分意図的にだと思うのですが、逆にゼットをどんどん薄っぺらなキャラクターへと仕立て上げています。とりあえず、ドラマ上は退場組とゼットを分け隔てる要素として「キラキラ」の存在を挙げていますね。

 シュバルツは、表面上「助けられた命を返す」という理屈を付けて行動していますが、他方で常日頃より「復讐」という言葉を口に出していた事を考えると、単なる照れ隠しであるのは間違いありません。つまりは、グリッタへの愛に殉じたという言い方が正しいわけで、それが最期の「自分はキラキラを手に入れた」という発言へとダイレクトに繋がっていました。

 この「キラキラを手に入れた」という台詞、非常に素晴らしいものでしたね。ゼットとの力の優劣はシュバルツも良く理解しており、ドリルレッシャーを手に入れたり、虚を突いたりといった奇襲・強襲作戦しか取れなかった処を見てもそれは如実です。ところが、ゼットが何とかして手に入れたいと思っている「キラキラ」に関しては、最終的に手に入れてしまったシュバルツの方に軍配が。シュバルツは、ゼットが到達出来ない場所に先に到達してしまったという優越感を露わにするのです。この時、表情がフィクスされている筈のマスクに、勝ち誇ったような笑みが浮かんだように見えたのは、正に映像マジックの勝利といった処でしょう。

 私自身は、シュバルツとグリッタが手を取り合ってシャドーラインの改革(?)へと突き進んで行く流れを予想していましたから、今回の「殉死」には衝撃を受けたクチですけれども(笑)。考えてみればシュバルツは順当に「悪役」だったわけで、東映ヒーローモノの正統としては粛正せざるを得ないんですよね。一時期、「どんなに悪いヤツでも改心すれば大団円」というパターンが頻出した時期もありましたが、アレはやっぱり東映的には有り得ないんだと思うわけです。法治国家としては「私刑」が許されない。だから、せめて勧善懲悪のフィクションの中でスカッとしましょうぜ...というのが、東映チャンバラからの伝統ですからね。

 それに、シュバルツが生き残る展開もよくよく考えれば陳腐。「グリッタと結ばれて良かったね」という気持ちを味わいたい感もあるものの、それだとゼットの矮小化は避けられませんし、更にはゼットの対極にあるライト達へも良い影響は及ぼさないでしょう。今回の退場は正解でした。

 続いてノア夫人。前回、半ば唐突にシュバルツ陣営に合流した彼女ですが、権力欲から盲目的な母性愛に移行していく過程が、少ないシーンながらも執拗なまでに挿入され続けた為、その合流は唐突ながらも心情的に自然な流れとなっていました。今回は更に、自己犠牲にまで踏み込み、グリッタに「自分からも自由になりなさい」と言い放つ等、無償の母性愛を見せて散っていくのです。

 これには参りましたね〜。当初はネロと双璧を為すエゴイストとして描かれたノア夫人が、ここまで変化するとは(ネロも状況に流される内にエゴがフェイドアウトして行ってますが)。

 一方で、シュバルツに気を取られているゼットを背後から刺すというシーンは、サスペンスフルに仕上がっていて、仮面劇としても超上質な仕上がり。こういうシーンがあると、やはり特撮というジャンルはいいなぁ...と思ってしまいます。情念的なドラマが色濃い今回ですけれども、こういった「手練が作り出すアクションシーン」がドライブ感を創出していて、とても良いです。

 そして、言及はされませんでしたが、ノアにも「虹」が見えたのではないでしょうか。

 シュバルツのように明言こそしなかったものの、グリッタを救う為だけに行動したノアは、既にエゴを消滅させていて、利他的、無償愛といった「キラキラ」を纏って散りました。シャドーラインを存在の場としていた者達は、「キラキラ」を見つけた途端に消える運命を背負わされるようで切ないですが、シュバルツにしろノアにしろ、勧善懲悪モノ特有のヒロイズムに殉じたように見えます。

 ゼットが一向に「キラキラ」を手に入れられないのは、その「闇の権化」という性質に依る処が大きいと説明されているようにも見えますが、シュバルツやノアのように利他的な精神を持つ事が出来ないからではないでしょうか。

 ゼットの求める「キラキラ」は、自らの所有欲に根ざしたものであり、非常に動機が利己的。グリッタは利他的な動機でゼットの中に留まっていましたが、それがゼットの求めるものと相容れなかったのは、容易に理解出来るわけです。

 ここで、ゼットが何故グリッタを闇に塗り込めなかったのかも、何となく推測出来るようになりました。

 考えられる理由は二つあって、ゼットが理解出来ない「キラキラ」だった為に消滅させる事が出来なかったというものと、グリッタがいなくなる事で自らが闇そのものになってしまう(=「キラキラ」から遙か遠ざかってしまう)のを予見していたというもの。

 果たして今回、グリッタが分離した事で闇そのものとなり、いわば「単なる闇」になってしまったゼットは、そのキャラクター性を単一的で硬直したものへと堕してしまいました。その様子を見る限りは、闇そのものになるのを嫌がったという理由が色濃いのかも知れません。まぁ、一筋縄では行かない「トッキュウジャー」ですから、今後ゼットに何らかの変化が生じるのでしょうけれど、今の処はライト達の前に立ちはだかるラスボスの風格を持たされた「典型の枠を出ない悪役」にされた事は間違いないです。

 そうそう、明についても言及しておかなければ。

 明は冒頭にザラムとしてトッキュウジャーと戦っていたり(アクションシーンでちゃんと遠慮している・笑)、シュバルツの手助けをしたりと色々動いていましたが、結局は周辺で事態を見守ることしか出来ない状況になってしまいました。ハイライトはトッキュウ6号に変身したゼットとの対決でしたが、はっきりと事態に介入したのはこのシーン程度です。

 しかしながら、ゼット使用のトッキュウ6号が描写されたが故に、巨大戦前に明がライト達の処に戻ってくるシーンの情感が、大幅にアップされた事を見逃してはなりません。トッキュウ6号という「誰でも使えるガジェット」が、やっと明と同一のものとなった瞬間、ライト達を「トッキュウジャー」ではなく個々の名前で呼ぶことが出来るようになった虹野明。彼はここで名実共にトッキュウジャーとなりました。

 そして、巨大戦ではロボで名乗りを行い...という展開は、まぁ年末商戦編ではお約束になりつつあるので割愛(笑)。

 次回は、何となくしっとりとした質感を期待出来そうな感じ。私は今回が今年最後と思っていましたが、そうではないんですね。盛り上がりまくったクリスマス編の後に、年末編として何を提示してくるのか楽しみです。