第10駅「「トカッチ、夕焼けに死す」」

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 サブタイトルの二重鉤括弧はミスタイプではありません(笑)。「トカッチ、夕焼けに死す」という文言なんですよ、という意思表明がなされたサブタイトルというわけですね。

 勿論、今回のメインはトカッチなのですが、実は藤沢弘樹なるゲスト子役の方に視点の中心が置かれており、かなり正当派のヒーロー譚として成立している処が面白いです。

 また、努力家のトカッチならではのテーマ性の発露、そして華麗な逆転劇が爽快で、やっとトッキュウ2号本来の格好良さが表現されたのではないかと思います。パロディ精神にも溢れていて良いですね。

 今回、特に関心を惹かれるのは、イマジネーションの解釈と、タイプシャドーによる現実化能力でしょう。

 今回提示されたイマジネーションの解釈は、今後の展開において恐らく最重要項目となるものです。今の処、小林さんが今シリーズの脚本を全話担当していますが、途中で他のライターさんを投入してくる事も有り得るわけで、その際にイマジネーションの解釈がぶれないようにしておくのは、メインライターとして重要な仕事なのだと思います。

 で、その解釈というのは、「イマジネーション≠祈り」というもの。

 祈り(「強い思い」と換言される事も)から奇蹟が起きる展開は、数多の物語が取り入れて来たものですが、これはいわゆるデウス・エクス・マキナの一種で、私自身はあまり好きな展開ではありません。

 祈りのプロセス自体が数千人規模で、その描写が「人類の総意」といったものになっているならば、それはそれで作品のテーマを体現していたりするので良いのですが、ヒーローだけが祈って奇蹟を起こすのは、やはりご都合主義に程近いものですし、ノれないです。

 ちなみに、「人類の総意」的なもので最も典型的なパターンを示しているのは、ごく私感で言わせて頂くならば、「六神合体ゴッドマーズ」の最終話や、「スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」の巨大戦辺りではないでしょうか。ご都合主義的なものの典型は「ガオレンジャー」かなぁ...。当時の空気としては(同期の「クウガ」が「祈り等意味が無い」事を示していたのもあって)ノれたんですけど。

 こうした前例を振り返ると、「イマジネーション≠祈り」は、多数の人間がシャドーラインの侵略から逃れたいと考えているわけではないこの世界において、確実に有効な思想を提供していると思います。

 この世界観の上では、数少ない当事者であるヒーローの祈りは、あくまで個人的なものに限定されてしまうので、祈りの力としてはごく小さいものになる筈です。実際、ヒーロー本人ではないですが、弘樹は「ヒットを打てますように」という非常に個人的な祈りが文字通り空振りに終わってしまっています。

 また、イマジネーションの力が祈りと同一視されると、それが単なる魔法のようになってしまい、ストーリーを進める上で便利なただの道具と化してしまう恐れもあります。それはもはやテーマではなく便利なガジェット。そこにドラマが入り込む余地はないと言って良いでしょう。便利なガジェットと言えば、真っ先に「ドラえもん」を想起しますが、「ドラえもん」の場合は、ガジェットはソリューションではなくてあくまできっかけに過ぎないので、ガジェットの所為でのび太がヒドい目に遭ったり、ガジェット使用の先でテーマへの気付きがもたらされる展開であったりするわけです。たまに、「ドラえもん」がさっと道具を取り出して安易だという論が出て来ますけど、それはまるっきり見てる箇所が違うんだよなー。

 ...さて、話を元に戻します。

 イマジネーションが祈りではないという事は、ライトやカグラが時折発揮する超人的なイマジネーションの力は、「そうでありたい」という願望力ではなく、「そうなる自分が見える」という想像力であるという事になります。勿論、トッキュウジャーはレインボーラインがもたらす特殊な力によって、常人を超えた能力を発揮する事が出来るわけですが、想像出来るという事が即ち高い実現可能性を示すには、自分の能力の熟知という「根拠」がなければなりません。つまり、ライトもカグラも実現可能性の根拠たる知力・体力を潜在的に有している事に他なりません。正に、ヒーローなわけです。

 今回トカッチは、ライトやカグラのようなハイブロウなイマジネーションを働かせるのではなく、自らの能力の中で「発想力」を活かす方向性を見出していました。懸命に妙な動作を練習する彼の姿には、努力家の面が顕著に表れています。

 この練習シーンは、傍から見ると滑稽に見えるが、実は覿面の効果を持っているという、ある種のカタルシスを約束するものです。実は、滑稽に見えてもトカッチ役の平牧さんの身体能力の高さが窺える動きでもあって、開脚ジャンプ辺りは特に見事なものですね。

 そして、楽しい上に「トッキュウジャー」の生真面目さが現れたのが、トカッチが本当に死んでしまうシーン。奇蹟が起こってトカッチが死を免れるわけでも、タイムリミットまでにタイプシャドーを倒すという定番でもなく、本当にタイプシャドーの打った「トカッチ、夕焼けに死す」は実現してしまうのです。サブタイトルに偽りなし!!

 その後、トカッチは復活を果たすのですが、それは仲間が落とした涙が再び彼に命を...とか、タイプシャドーの頭にある紙を巻き戻す...とかではなく(そういう話もいいんだけど)、トカッチ自らが見据えたイマジネーションを実現させた結果だというのが素晴らしい処。トカッチが自らに向けた「そして復活!」という文字を、タイプシャドーの隙を見ながら打っていたというタネ明かしの痛快さよ!

 敵の能力を逆利用するという頭脳戦の要素もあって、本当に感心してしまいました。

 その「敵の能力」関連は、パロディ精神に溢れていて楽しいものとなりました。トカッチがメインを張りつつも、意外な事に全体的にシリアスなムードに包まれていたので、パロディ要素がキラッと光るんですよね。

 パロディの中でも、メインとなるのはタイプシャドーが放つ「文字」。この書体が、何故かウルトラシリーズっぽいんです。後々、「帰ってきたトッキュウレッシャー」というタイプが登場しますが、サブタイトルといい、この「帰ってきたトッキュウレッシャー」といい、どうも「帰ってきたウルトラマン」を意識しているような気がするんですよね(笑)。


 そもそも、タイプシャドー自体が旧型のタイプライターをモチーフとしていて、メインの視聴者である子供にとっては恐らく認識出来ない筈。敢えてそういうモチーフを選択する制作側に自信が感じられると言いましょうか、シャドーラインが持つレトロ、ゴシックといった雰囲気に合致させる徹底振りが窺えますね。

 他にも、「さよならトッキュウレッシャー」は、宇宙を走る烈車がさながら「さよなら銀河鉄道999」のようですし、先日の関根さんによる千葉真一さんの物真似と同種の精神によるユーモアを感じる事が出来ます。普段の烈車走行シーンは、精緻な市街地のミニチュアの質感がすこぶる良く、そのリアリティとイマジネーションの狭間が何とも言えない高揚感を与えてくれますが、今回のような宇宙空間の走行シーンも非常にイマジネーション豊かで、いつかはこのようなシーンをフル活用するようなエピソードを見てみたいものです。

 巨大戦では、ディーゼルオーとトッキュウオーの初タッグを用意。

 まず、トッキュウオーが「さよならトッキュウレッシャー」状態なので、サポートレッシャーのみで構成出来るディーゼルオーを登場させ、トカッチ復活と同じ手順(成功した作戦を早速再利用する段取りの良さ!)でトッキュウオーを呼び戻すという流れとなり、自然にタッグを実現させています。

 今回はトカッチの逆転劇が「夕焼け」を舞台にしていた為、必然的に日没後の巨大戦が展開され、火薬量もミニチュアも贅沢と言える水準で使用されて場面を彩っていました。この画面の豪華さはコンテンツの勢いを象徴するものだと思いますね。

 ラストは、「イマジネーション≠祈り」だと理解した弘樹の目に、烈車が映るようになるというエピローグが暖かい質感を伴っています。烈車を目視出来るか否かが、イマジネーションの有無を示しているという図式は、本エピソードを経て、「実現に向かって無限の想像力を働かせているか」という、より具体的なテーゼに換言される事になりました。これが翼となるか足枷となるか、今後のストーリーテリングに大いに期待したい処です。

 次回は、闇の皇帝が遂に登場!? ...って、まだ1クールも経過してないですが(笑)。