第12駅「虹の定期券」

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 前回からの直接の続きという体裁を採りつつ、雰囲気をガラリと変えてきたライト編。所謂「設定編」の側面もあって、重要なエピソードとなりました。

 前回は、ゼットの登場をアピールする為、描写も視点もシャドーライン寄りでまとめられていましたが、今回はアクションの描写も含めてトッキュウジャー寄り。ライト達が何故トッキュウジャーになったのか、その端っこのごく一部が明かされる事となります。

 ごく一部と言っても、そこで描かれる精神性は「トッキュウジャー」のテーマ性を如実に示すものでしたし、今回の言明を意識下に置いておくか否かで、今後の見方が結構変わるのではないかと見ています。

 今回の仕掛けは、ランプシャドーの催眠術によって、ライト以外の四人がトッキュウジャーである事を忘れてしまうというもの。ランプシャドーの能力としては、子供のイマジネーションを奪ってしまうという水準に達しており、単にトッキュウジャーを忘れさせるというよりも、ライト以外の人間からイマジネーションを奪ったという解釈が正しいのかも知れません。

 ライトだけを残したのは、勿論ゼットの興味の対象がライトの「キラキラ」だったから。トッキュウジャーとして強力な敵を相手に孤軍奮闘する中、その輝きをどこまで保てるかという興味です。

 この仕掛けによって、ライトの孤立という舞台が自然に用意される事となり、楽しい副産物として、他の四人のいわば「コスプレ」が披露される事になりました。各々に想定された職業を遺憾なく現した衣装が、程良いコメディ感覚を付加しています。ミオの警官姿は実に似合ってましたね~(笑)。あと、カグラは森高さんが本業のモデルなので、全カットがいちいち決まっている! あのクォリティの高さには絶句してしまいましたわ...。ちなみにコメディ感覚と言えば、ランプシャドーがライトに作戦のあらましを説明するくだりでは、トッキュウ1号が座り込んで聴いているという、シュールな画が用意されていましたね。

 このようなコミカルなお膳立ての中にあって、ライトが彼等の職場(?)を回ってトッキュウジャーである事を思い出させようとするシーンには、ギクリとするようなテーマ性が盛り込まれていました。それぞれの職業で忙しそうに働いている面々からは、ライトに向かって「大人になれ」といったニュアンスの言葉が発せられるのです。

 「トッキュウジャー」では、「イマジネーションは子供が持つもの」というテーゼによって、大人と子供の対比が頻繁に描かれており、概ねそれは烈車が見えるか否かという分かり易いビジュアルによって表現されています。今回は、一時的に一般的な大人となった四人が、ライトを子供扱いするという図式によって、そのテーゼが強調されていました。

 この一連のシーンを見ていると、日々に忙殺される大人がイマジネーションを失うのは自然な事で、トッキュウジャーこそが特殊なのだという事を痛感させられるのです。現在、大人になった身からすれば、トカッチやミオが言い放つ言葉の方が自然に聞こえるし、ライトの反論は(演出面で強調されてはいますが)子供っぽいと感じられます。

 ここで、この「トッキュウジャー」を観ている、いわば烈車が見えている「大きなお友達」は、「大人になれよ」と言われているような気がしてギクリとしてしまうわけです(笑)。ライトは、子供の目線に容易に降りる事が出来る(というより、元々子供の目線で生きているとの形容が似合う)ので、子供の視聴者代表である事に疑問を挟む余地はありませんが、同時に「大きなお友達」の代理人としての役割をも負わされてしまったように見えます。

 近年、特にニチアサは二世代、ヘタをすると三世代キャラクターが志向されている傾向があるわけですが、作風に適度な緩さを内包する「トッキュウジャー」で、今回のようなアンチテーゼが登場する事に衝撃を覚えました。ただ、アンチテーゼとはいえども全否定されているわけではなく、「イマジネーション豊かな大人が作ってますよ」という優しさが透過出来る辺り、実に良心的であるし、「イマジネーション豊かな大人に支えて貰ってますよ」という商魂が垣間見える部分もあって...って、もう何を言ってるか分からなくなって来たので、この辺でやめておきます(笑)。

 さて、今回の第二の仕掛けは、第一の仕掛けによって用意された舞台から飛び降りる為のものです。

 その中心にあるのは、ライト達の幼少期のシーンで頻繁に触れられる手作りのパス。オープニングでも挿入されているので、視聴者にはしっかりと印象付けられている小道具ですね。

 私自身は、あの手作りパスこそが、レインボーパスなんだろうなぁ...と漠然と考えていましたが、何となく当たっていました。ただし、その描写は非常に観念的に処理されている為、手作りパスが直接レインボーパスに変化したと考えるのは短絡的に過ぎると思いもします。闇にとらわれている五人が、唯一子供の頃に有していた豊かなイマジネーションを取り戻すきっかけとして機能するのが、あの手作りパスであり、そこにレインボーラインのあらゆるパワーを実現するレインボーパスが重なり合う事で、トッキュウジャーとしての能力を得たと解釈するのが(現時点では)妥当な処でしょう。

 なお、催眠状態にある四人が、ふと手元にあるパスに気付くシーンは、「そこにパスがある」という現実感よりも、「まだイマジネーションの欠片は手元に残っている」というイメージですし、それだけにやや難解でもあります。

 描写としては難解ですが、五人の再集結に関しては結構サラッと描かれていて、簡潔な印象があります。劇中では、五人がパスの裏に書いていた掟の三つ目(「絶対5人で助け合うこと」)が、四人を再びライトの元へと集結させたという流れになっていますが、ライトは四人がその掟を覚えている事に関して疑う事もしない上、四人に関しても既に催眠状態から解放された状態で出現するのです。この「簡潔さ」は、ライトの発想が疑義のない子供のそれである事を示していて、前段のアンチテーゼと合わせ、大人と子供の対比がテーマとして徹底されたわけです。

 実に鮮やかでした。

 一方、シャドーライン側は、ゼットの言動に頭を抱えるネロ男爵や、隙を見て取り入ろうとするノア婦人、行方不明のグリッタ嬢を黙々と探しに出かけるシュバルツ将軍と、個性的な描写も健在。ゼットの「キラキラ」への拘りは、殆ど「悪趣味」という感覚のギャグとして描かれており、故にネロ男爵を闇のオーラだけで吹き飛ばしてしまうシーンの恐ろしさが際立っています。

 ゼットが闇への興味を失っているという事で、現在のトッキュウジャーでは到底太刀打ち出来ないシャドーラインの総合力が分散され、またゼット自身がライトに興味を抱いている事が、その強大な闇の力を行使しない理由になっており、キャラクターのポジショニングでパワーバランスを整理している辺りはさすがだと言えます。

 グリッタ嬢は、あの醜怪なる出で立ちのまま、鉄道で移動するというシュールな画を提供。市井の人々が見て見ぬ振りをする辺りも、シュールながら意外とリアルな反応。とても印象的なシーンでした。そのグリッタ嬢、ゼットに刃を向けようと近付き、しかも逆にゼットに気に入られてシュバルツの例のハンカチを落とし、それにシュバルツが気付くという、完全に少女漫画的な展開を担っていますが、これら一連を醜怪なスーツでやってしまうのが醍醐味。ベテラン声優・日髙さんの素晴らしく可愛らしい演技が抜群なので、そのギャップが余計に印象に残ります。

 なお、シャドーラインは、ネロ(伊:nero)、ノア(仏:noir)、シュバルツ(独:schwarz)といった具合に、全て「黒」で構成されているのですが、何故グリッタ嬢だけglitterなのか、分からずに居ました。今回、ゼットがグリッタ嬢の中に輝きを見出した事で、少しその狙いが見えたような気がします。

 そして、新トピックとして、超トッキュウオーが登場。パワーアップ劇でも何でも無いエピソードで突如出してくる勢いの凄さが鮮烈です。その超トッキュウオーをフィーチュアした巨大戦は、俯瞰のカットを多く配置。目を見張る精緻な市街地セットに、烈車が走り回るスピード感、超トッキュウオーが所狭しと立ち回るスケール感、オープンセットに切り替えてアオる巨大感...全てが素晴らしく、ワクワクするような画作り。もう、ホントにこの作風でウルトラマンやって欲しいです(笑)。

 というわけで、とりあえず1クールはこれで一段落(1話分は春休み合体スペシャルに充当)。次回は、脚本を大和屋暁さんにスイッチして、バラエティ編となる予感。