第8駅「レインボーライン大爆破」

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 新烈車・ディーゼルレッシャー登場編。

 新烈車登場となると、筋書きとしては探求に関するトピックがメインになってしかるべきではあるのですが、タンクレッシャーの回では、スタティックな雰囲気で繰り広げられる駆け引きが、そして今回は、暴走列車を主舞台に据えたダイナミックな駆け引きが全面的に展開されます。双方烈車探しに関しては、地道な努力が描かれる点において相似形を為していますが、物語の構造としてはかなり違うと言えます。

 この二つのエピソードを比べると、同質感に陥りやすい構造のエピソードを差別化する工夫が随所に見られます。あの手この手で飽きさせない物語作りはさすがと言った処ですね。

 今回の目立つトピックは、次の三つとなります。一つ目は、物語の大半が暴走する烈車内で繰り広げられるという密室劇になっている事。二つ目は、ライトだけが自由に動いて新烈車を見つけてしまう事。三つ目は無論、車掌さん!

 まず一つ目、物語の大半が暴走する烈車内で繰り広げられるという密室劇について。

 アクション映画では定番となる、空間を限定した緊張感のある画面作り。これが「トッキュウジャー」らしさを交えつつ、高度なレベルで成立していました。疾走する車内でアクションが繰り広げられるというパターンは、「007 ロシアより愛をこめて」にパイオニアかつ白眉たるシーンが登場して以来、数々のアクション映画に取り入れられましたが、どれも緊張感を煽るという意義を果たしており、このシチュエーションがいかに有効かを示しています。

 今回は、バクダンシャドーの仕掛けるゲームを、タイムリミット押し迫る暴走烈車の車内で繰り広げる...という、若干ユルい設定で進行して行きますが、要所要所で挿入される「烈車運行に関する危機」が非常に高い効果を上げており、単なるゲームの勝敗に留まらない危機感を醸し出していたと思います。速度が高すぎてカーブを曲がりきれないとか、タンクへの激突寸前にディーゼルレッシャーによる牽引が功を奏するとか、ギリギリの線での危機回避が、抜群の特撮描写によって遺憾なく表現されていました。それぞれが、異空間で描写を省略するといったものではなく、あくまで実景を思わせるセットの中で行われ、多分に実在感のあるシーンとなっていました。これは特撮ファンに満足感を与えて余りある完成度だったのではないでしょうか。

 一方で前述した「設定のユルさ」は、危機一辺倒ではない「明るさ」を画面に付加しており、もたらされる「隙」を利用して、ライトによるディーゼルレッシャーの探求シーンを挿入したり、ワゴンがトカッチを固定する際に緊張感のないデコレーション(?)を施したりといったコミカルな場面を導入したりで、各時間軸の処理を違和感なくまとめていました。適度なユルさは、勿論「トッキュウジャー」の全体的な雰囲気にも合致しています。

 なお、バクダンシャドーが見せた、一度敗れて烈車内に潜入するというパターンは、戦隊初期では「ゴレンジャー」のゴールデン仮面大将軍や、「バトルフィーバー」のヘッダー怪人といった、幹部級怪人が使う「切り札」的なものでしたが、随分とユルくなったものですね(笑)。潜入後に爆弾を爆発させれば、烈車自体を壊滅的打撃に追い込む事が可能だったのに、敢えてそれをやらなかった辺り、やっぱりユルい。上からの命令でゲームをやっているといった発言がありましたが、ネロ男爵の言う陽動が単なる陽動ではつまらないので、敢えてそういう戯れに及んだのかも知れません。

 さて、ライトだけが自由に動いて新烈車を見つけてしまうというのが、二つ目のトピックです。

 今回は、子供の目線に最も近いライトが、子供達からディーゼルレッシャーの在処を聞き出し、単独ですんなりと見つけてしまいます。この流れが物凄くライトらしくて自然なのが見事。

 端緒は「烈車は子供には見えるから、子供に聞き込みをすればいい」というヒカリの提案。ここで完全に的外れな聞き込みをしているトカッチは、突出した変人振りを発揮(笑)。他にも、大人っぽいが実に優しいミオとヒカリの描写、一緒に遊びながらも質問自体は浴びせ続けるカグラといった具合に、それぞれのキャラクター性をちゃんと表出させている辺りが巧い処です。

 そんな中、ライトはさらっと質問した後、聞き込み自体を忘れたかのように、子供達と遊び始めてしまいます。今回、ライトは暴走烈車からは自由な存在でしたが、既に聞き込みの時点から自由すぎる人だったわけです。ここでは、ライトの姿勢に若干の「呆れ」を覚えるよう場面設計されているかの如く感じられます。年季の入った特撮ファンは、ここでライトと交流する子供達がディーゼルレッシャーの在処を知っているのだろうと分かり、一緒に遊ぶ事で信頼を得るのだろうと分かるわけですが(笑)、実際にその通りとなり、ライトの存在感が一気に増してくるようになっています。

 その後、動かないディーゼルレッシャーを綺麗に掃除したり、「じいちゃん」と呼んで話しかけたりと、極めてオーソドックスな手法による「歩み寄り」を図るライトですが、多くのヒーローが、「手を尽くした後に望みを捨てかける中、熱い思いが通じて奇蹟的に...」というプロセスを経て、しかもそれがそれなりに感動的だったりする中、あくまでライトのイマジネーションのパワーによって呼び醒まされるというプロセスがきちんと描かれている素晴らしさよ! ディーゼルレッシャー復活の描写は、その画面を「奇蹟」の質感に寄せてはいますが(「イマジネーション」由来なので寄せざるを得なかった?)、冒頭から「イマジネーションの強いライトならば復活が可能」というセリフで伏線が張られていたり、ライトが常にポジティヴに向き合っていたりするので、ちゃんと奇蹟でない説得力ある復活が成立していました。ディーゼルレッシャー起動時の、力強さを感じさせる特撮の描写力にも注目です。

 三つ目の車掌さんに関しては、言っても言い尽くせない感がありますが(笑)。

 コメディ俳優・関根勤ここにありといった処でしょう!

 普段の淡々としたセリフ回しは、車掌という人物が場面の説明役、つまりナレーターの肩代わりをしているからなのですが、今回は自ら烈車を運転するという、極めて能動的な役割を負っている為、関根さんのポテンシャルが前面に出ています。

 危機的場面が押し迫ってくると、途端に口調が変わる処がまず可笑しい。勿論、これは関根さんの芸風の一つである「渋いモノマネ」が全面フィーチュアされたものであり、具体的には千葉真一さんの物真似が披露されたわけです。私は存じ上げませんでしたが、「新幹線大爆破」という作品に千葉さんが出演されており、正に今回の展開にピッタリの「人選」だったようです。

 このシーンの素晴らしい処は、関根さんが得意とする「特定の人がニヤリとする」物真似によって、緊迫したシーンを笑いで崩壊させる事なく、少しコミカルな味を含ませ、更に極限における車掌さんの「人格交代」に類する推論を成立させるに至る処です。例えば、最近の子供達でも容易に分かるような林修先生の物真似をやってしまうと、シーンの緊迫感は笑いの要素で掻き消されてしまうでしょう。子供には殆ど分からない物真似で、大人(と言っても多分20代の親だと分からないでしょうが・笑)だけがクスッと笑える...正に多世代コンテンツの鑑ではないでしょうか。まぁ、単に関根さんの芸風が大好きだという事もありますが(笑)。

 あと、チケットくんが自在に着脱可能で、しかも外した後の扱い(チケットくんの服で汗を拭く!)が結構雑だったりするのが衝撃的でした。まだ8話目なのですが、出し惜しみしないですねぇ。当該シーンでは、チケットくんに人格や意志といったものが全く感じられませんでしたが、手首に着けた途端に人格が宿る辺り、関根さんの「手の演技」の素晴らしさが分かろうというものです。

 巨大戦は、今回バクダンシャドーに破壊された部分を「応急処置」したという説明がわざわざ挿入される段取りの良さが光り、烈車が合体しないままでディーゼルレッシャーの初陣を飾らせる構成が見事。ちょっとバクダンシャドー弱すぎな感は否めませんでしたが...。

 次回は待望のミオ単独編! しかも恋愛モノっぽい感じなので、俄然楽しみが増しますね。